島崎藤村の「夜明け前」(新潮文庫)を読んだ。未読だったのだけれど、飯嶋和一が田中優子との対談で好きな日本の小説として「夜明け前」をあげていたこと、8月末に木曽音楽祭を聴きに出掛ける際に馬籠宿を訪れる予定があることといった理由から読み始めて、3か月ほどかけてこの長い小説を読了した。飯嶋和一はディテールが丁寧に描かれているとコメントしていて、そのコメントは飯嶋和一の作品にこそ当てはまるように思えるのだけれど、飯嶋和一が「夜明け前」から受け取ったものがあろうことは感じられるような気がした。この作品の登場人物の多くは江戸末期にあらかた人格を形成した東山道筋や江戸で暮らした庶民たちで、その人たちの目から見た江戸末期から明治初期の日々の暮らしや、明治維新を挟む時代の大きな動きを想像しながら読書する時間を過ごせたことは、楽しみであり、またこれからの時代に向けた学びでもあったと思う。鎖国を終えて開国し、明治維新を挟んで近代化を進めていった時期の市井の人たちが何を感じ、何を考え、どう行動していたのか、どんな達成があり挫折があったのか、歴史的な出来事やリーダーの視点に偏りがちな多くの作品とはまた違った角度でこの時代を見つめる機会を得られたことが、この作品を読んだことの大きな収穫だったように思える。馬籠宿を訪れてこの作品を振り返ることを楽しみにしている。
野反湖
過去の写真を振り返ると4月から11月までのアクセス可能な期間で野反湖に行っていない月は8月だけだったので、この日は実家で余生?を送っている今まで毎回一緒に野反湖に出掛けてきたノア(10月で23歳になる)を運転して、北岳に登るという次女と三女を午前5時に芦安駐車場で下ろしてから野反湖を訪れた。まずは、エリオット・アーウィットごっこ?で一枚。

8月の野反湖は生命力が横溢している印象だった。今を盛りと咲く様々な花々、これから咲く蕾、咲き終えた枯花、遊歩道を塞ぐほどに生い茂る様々な種類の草木、シダ、そしてコケやキノコ、時折聞こえてくる鶯の鳴き声、周囲を飛び回るトンボやアブ、目を近づけると見えてくる様々な虫たち、短い夏の季節に生命のサイクルが凝縮されているような、そんなパワーを感じる湖畔だった。



前日に購入したFujiのXF16mmF2.8を使ってみたのだけれど、コンパクトで扱いやすく、野反湖での散歩の良い相棒になりそうだった。(同時に購入したFujiのXF30mmF2.8Macroは、今回は持参しなかったのだけれど、次回は連れてきたいと思っている。)帰りは小野上温泉で汗を流してから帰宅した。アルカリ性の肌にやさしいお湯で、広い浴場には露天風呂もサウナもあり、410円の入浴料は破格に安いと思った。
2026年7月は61.3キロ
2026年7月の月間走行距離は61.3キロだった。暑いので毎回5キロしか走っていないのだけれど、少しずつ距離を延ばしていこうと思う。
フェスタ・サマーミューザ 仙台フィル
ミューザ川崎シンフォニーホールで開催されるミューザ・サマーフェスタで高関健が指揮する仙台フィルのコンサートを聴いた。1曲目に演奏されたショスタコーヴィチの交響曲第9番は、コンサートで聴くのは初めてだったのだけれど、戦勝後の1945年8月に作曲され初演後に当局からショスタコーヴィチへの激しい非難と攻撃を招いた歴史がプログラムや高関健のプレトークでも紹介されていたこともあって、その正統的かつ諧謔的な味わいを楽しみつつも、感情以上に理性を揺さぶられたような気がした。2曲目はチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」で、こちらも振り返ってみると感情よりも意志の力を感じる演奏だったように思える。演奏を聴きながら、数年前にコバケンが東京シティフィルを振った時の演奏はまた違った味わいだったよなぁなどと思い出したりもした。(そういえば、ショスタコのときも井上道義の演奏を思い出したりしていた。)コンサートを通じて、仙台フィルの演奏は素晴らしく、特に見せ場の多かったファゴットやクラリネットの音色は素敵だったと思うし、ホールも(2CBの席からでも)オケが近くに感じられたのだけれど、高関健と東京シティフィルの演奏に感じるような何と言うか(客席も含めた)期待感とか一体感とかいったようなものがやや希薄だったようにも感じられた。仙台のホールで定期演奏会を聴くとまた違った印象を受けるのかもしれないけれど、仙台はちょと遠いなぁ。
NORA
東京芸術劇場プレイハウスでティモフェイ・クリャービンが演出する「NORA」を観た。イプセンの「人形の家」を現代のスマホ中心の生活に移して描く作品だという紹介と、キャストの顔ぶれ(黒木華、勝地涼、瀧内公美、鈴木浩介)を見てチケットを購入したのだけれど、想像していた範囲を大きく踏み越えた芝居だった。舞台前面に下ろされた黒い仕切りの下部に高さ3メートルくらいの幅で透過フィルムが張られ、その向こう側の3つに仕切られた区画に役者が配置されるのだけれど、主要な4人の登場人物(「人形の家」のランク医師は登場しない。)は異なる区画に配置されて、それぞれに離れた場所での日常を過ごしつつ、フィルム上部の黒い仕切りに投影されるLINEの画面上の文字、スタンプ、ボイスメッセージでお互いにコミュニケーションを取り、実際に役者が対面して会話するシーンは、原作では第3幕にあるクリスティーン(リンネ婦人)がクログスタに復縁を話しかけるシーンと、ヘルメルがノラを非難し、ノラがヘルメルに(LINEメッセージを交えながら)別れを告げるシーンだけという斬新な構成で、原作ではヘルメル家の居間で交わされる会話のほぼすべてがLINEメッセージで表現される。「人形の家」を再読してから観に行った自分は、筋を追わずにこの理知的な構成の企みを考えながら芝居を楽しむことになったのだけれど、再読していなかったらLINEメッセージを読むのに忙しかかっただろうと思う。もっとも、自分はスマホを極力使わない生活を送っているのだけれど、妻や娘は一緒に過ごしていても意識の半分はネット空間いるようなことも多く、この芝居の舞台の上半分と下半分を行き来するような毎日を過ごしている人にとっては苦にならない構成なのかもしれない。舞台上が暗転すると透過フィルム上に観客の姿が反射して映し出されて、フィジカルな位相にある役者同士、そして役者と客席が見えない壁で分断されていることを意識させられ(役者の声もPAを通して聞こえてくる。)、その上の位相のネット空間では登場人物にとって大事なことが文字や映像の情報で取り交されるこの芝居の空間は、文字や映像よりも遥かに豊かな情報を伝える身体表現を客席と分かち合うことを身上とする舞台本来の魅力を殺してまで何かを伝えようと試みているようにも思えて、少し重苦しくもあり、また切なくも感じられた。