
Books: 開玄堂が無料でご提供する中・短編の作品です。
Photos: Please enjoy photos of “Central Tokyo, North” “Koishikawa Botanical Garden” “Nozori Lake” “Travels in Japan” and “Travels Abroad.”
Blog: 読書、映画、演劇、音楽、美術、写真、遠出などに関する日々の雑感です。
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Booksから
「父の死・開玄堂」の冒頭部分

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From Photos

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最近のBlog
- NORA
東京芸術劇場プレイハウスでティモフェイ・クリャービンが演出する「NORA」を観た。イプセンの「人形の家」を現代のスマホ中心の生活に移して描く作品だという紹介と、キャストの顔ぶれ(黒木華、勝地涼、瀧内公美、鈴木浩介)を見てチケットを購入したのだけれど、想像していなかったような芝居だった。舞台前面に下ろされた黒い仕切りの下部に高さ3メートルくらいの幅で透過フィルムが張られ、その向こう側の3つに仕切られた区画に役者が配置されるのだけれど、主要な4人の登場人物(「人形の家」のランク医師は登場しない。)はそれぞれ異なる区画に配置されて、フィルム上部の黒い仕切りに投影されるLINEの画面上の文字、スタンプ、ボイスメッセージでコミュニケーションを取り、実際に役者が対面で会話するシーンは、原作では第3幕にあるクリスティーン(リンネ婦人)がクログスタに復縁を話しかけるシーンと、ヘルメルがノラを非難し、ノラがヘルメルに(LINEメッセージを交えながら)別れを告げるシーンだけという斬新な構成で、原作の居間で交わされた会話のほぼすべてがLINEメッセージで表現される。「人形の家」を再読してから観に行った自分は、筋を追わずにこの理知的な構成の企みを考えながら芝居を楽しむことになったのだけれど、再読していなかったらLINEメッセージを読むのに忙しかかっただろうと思う。もっとも、自分はスマホを極力使わない生活を送っているのだけれど、妻や娘は一緒に過ごしていても意識の半分はネット空間いるようなことも多く、この芝居の舞台の上半分と下半分を行き来するような日常を過ごしている人にとっては苦にならない構成なのかもしれない。舞台上が暗転すると透過フィルム上に観客の姿が反射して映し出されて、フィジカルな位相にある役者同士、そして役者と客席が見えない壁で分断されていることを意識させられ(役者の声もPAを通して聞こえてくる。)、その上の位相のネット空間では登場人物にとって大事なことがらが文字や映像の情報で取り交されるこの芝居の空間は、文字や映像よりも遥かに豊かな情報を含む身体表現を客席と分かち合うことを身上とする舞台本来の魅力を殺してまで何かを伝えようと試みているようにも思えて、少し重苦しくもあり、また切なくも感じられた。
- 響きの森クラシック・シリーズVol.88
文京シビックホールで原田慶太楼が指揮する東フィルの「響きの森クラシック・シリーズVol.88」を聴いた。1曲目はムソルグスキーの「展覧会の絵」で、東フィルの巧みさを感じつつも、今一つ乗り切れなかった。一昨年の秋に聴いたフランクフルト放送響の演奏は、もっと軽やかで奏者が緩やかに繋がりながら自由に演奏する楽しさや美しさを感じたのだけれど、それと比べると今日の演奏は統率が取れた印象で、指揮者の情熱や力量は感じつつも、昨今の報道で接する世情にやや辟易としていることもあってか、やや演奏から心が離れてしまったような気がする。2曲目は中川優芽花をソリストに迎えたラフマニノフのピアノ協奏曲第3番で、初めてホールで聴く中川優芽花のピアノはナチュラルで魅力的な響きに感じたのだけれど、席がやや後方だったこともあってか、ピアノがオケに完全に埋没してしまう場面も少なくなく、こちらも昨年のダニール・トリフォノフと広響のラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の演奏を思い出したりしながら、もう少しピアノを味わいたい気持ちがした。アンコールのシューマン「見知らぬ国と人々」は素敵な演奏だった。
- 東京シティ・フィル第384回定期演奏会
東京オペラシティで高関健が指揮するTCPOの第384回定期演奏会を聴いた。前半は、荒井英治をソリストに迎えたショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第2番で、やや重心を下げて質量のある音を機敏に動かすオーケストラと、その上を縦横無尽に走る荒井英治のヴァイオリンの音色の響き合いが素晴らしかった(荒井英治のヴァイオリンはホールの響きも味方につけているような印象を受けた。)。プレトークで高関健が話していたショスタコーヴィチの「疲れ」や、プログラムに荒井英治が書いていたショスタコーヴィチが抱える「カオス」に思いを巡らせながら聴いていたこともあってか、聴き慣れないこの曲にひどく心を動かされた。後半は、武満徹のア・ウェイ・ア・ローンⅡを挟んでから(プログラムとしてのまとまりは感じられたものの、続けてショスタコーヴィチを聴きたい気持ちも否定しがたっかかもしれない。)、同じく荒井英治をソリストに迎えてショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番が演奏され、こちらは、音数の多いスコアを高速で演奏するためだろうか、第2番よりもオーケストラの重心が少し上がったように感じられた。荒井英治が描く音のラインはの引き続き生命力を持って力強く、第1楽章で弦が切れ、楽章の終わりまでコンマスの戸澤哲夫の楽器に持ち替えるハプニングはあったものの(異なる楽器の響きを楽しむチャンスに恵まれたのは嬉しかった)、緊張感は途切れることがなく、最後の四楽章に向けて圧巻の演奏だったと思う。満足感の高いコンサートで、全体的にはそれほどクラッシック音楽通といった雰囲気でもない客席から、必ずしもポピュラーとは思えないこの曲の演奏に向けられた拍手とブラボーは長く、分厚く、温かく、演奏を終えた舞台上の奏者の表情にも充実感と歓びが感じられた。