南島原・原城跡

飯嶋和一の「出星前夜」を読んでから南島原を訪ねてみたいと思っていたのだが、仕事の関係で始まった長いお付き合いのある方々と熊本に行く機会を得たので、南島原に足を延ばしてきた。16世紀にポルトガルとの貿易で栄え、17世紀初めの幕藩体制の確立と共に交易の自由を失い、キリシタン弾圧に乗じた重税と苛政に抗った1637年から1638年にかけの島原の乱で2万人を超えると言われる人たちを失い、その後様々な地域からの植民を受け入れた歴史を持つこの土地は、この日は強い風が吹き、時折晴れ間が覗いたり軽く雨が降ったりと目まぐるしい気候だったけれど、南に広がる穏やかな島原湾の向こうに天草を望む静かな土地だった。388年前に落城した頃とちょうど同じ時節の原城跡では、訪れる人もまばらな中、当時はなかったはずだが、ソメイヨシノの桜が満開の時期を迎えていた。

原城本丸跡を望む
原城二の丸跡から有家方面を眺めて

2026年3月は26.5キロ

2026年3月の月間走行距離は26.5キロだった。月初にハーフマラソンを走り、月末に1回5キロを走っただけという為体なのだけれど、言い訳をするならば仕事が忙しかったということになるだろうか。もっと忙しくても走っている方がたくさんいることは分かっているのだけれど。

東京シティ・フィル50周年記念特別演奏会(2)

サントリーホールで高関健が指揮するTCPOの50周年記念特別演奏会(2026年3月31日)を聴いた。演目はマーラーの交響曲第2番「復活」。第1楽章は高関健と大編成のオーケストラの魅力を堪能し、その後20分間の休憩を挟んで演奏された第2楽章や第3楽章は、マーラーの斬新な試みから強い意思と意欲を感じつつ、ここからその後の中期そして後期の交響曲が生まれていったのだろう、といったマーラーの資質や歴史に思いを馳せながら聴いていたのだけれど、第4楽章から第5楽章にかけては、マーラー個人の意思や資質を超える力がこの曲を書かせていたようなこの曲自体の存在感が、そしてそれをそのままホールに届けようとする演奏者の気合のようなものがホールに立ち昇ってくるような、力強く充実した時間だった。素晴らしい演奏を経験させてもらえたことに感謝している。東京シティフィルコーアの合唱とソリストの森野美咲(ソプラノ)、加納悦子(メゾ・ソプラノ)の歌唱も素晴らしく、特に加納悦子の深い表情を湛えた声に魅力を感じた。終演後は温かく盛大な拍手とブラボーが続き、合唱団が退場を終えるまで(高関健が最後に舞台に戻って来るまで)会場で拍手を送り続けた観客も多かった。

藤田嗣治-白い暗闇-

東京芸術劇場シアターウエストで劇団印象-indian elephant-第33回公演「藤田嗣治-白い印象-」(作・演出・鈴木アツト)を観た。大きな船が海の波を分けて進むような音で芝居が始まり、時代をうかがわせる音楽やラジオの音、舞台を日本に移してからの蝉の声など、印象的な音はありつつもシンプルな音響、そして舞台全体を囲む大きな額縁をあしらった木枠といくつかの椅子、テーブル、ベッド、イーゼルといったこちらもシンプルな美術や衣装で、それだけに存在感のある素敵な役者さんたちの力強く巧みな演技と、脚本の言葉が前面に打ち出された芝居に感じられた。もっとも、自分の中でこの時代や藤田嗣治に近づこうとしてモヤモヤと感じているイメージとはちょっとズレがあったように思えて、そのズレの理由がどこにあるのか、帰り道に考えていたのだけれど、おそらく「疲れ」ではないかという気がしている。エコール・ド・パリや戦争の時代の「祝祭感」と藤田個人の強いエネルギーをもってしても、困難な時代や環境に向き合う中で避けようもない「疲れ」を、藤田も周りの人たちも抱えていたのではないか、今日の芝居にはこの「疲れ」の感覚が希薄だったようにも思えて、大事なことではないのかもしれないけれど、ちょっとしたズレを感じたのかもしれない。昨年秋に東京国立近代美術館で開催された企画展「記憶をひらく 記憶をつむぐ」を観て、改めて藤田嗣治への関心を深めたことがこの芝居を観るきっかけになったのだけれど、上演後、この企画展の担当をされた鈴木勝雄と鈴木アツトのアフタートークもあって、改めて藤田嗣治や戦争の時代の文化芸術について学びたいという気持ちになっている。(国立美術館の予算不足という理由でこの企画展の図録が作成できなかったようで、多くの人が訪れた素晴らしい企画展だっただけに、とても残念だ。)

誰かひとり/回復する人間

中野ザ・ポケットで「誰かひとり/回復する人間」(演出:西本由香)を観た。ノーベル文学賞作家であるヨン・フォッセの「誰かひとり」と、ハン・ガンの「回復する人間」を続けて上演するということで、今年に入ってから妻と三女に薦められて「別れを告げない」を読み、ハン・ガンの作品が気になっていたこともあって(「菜食主義者」はそれほどでもなかったのだけれど)、チケットを購入した。ふたつの作品は、いずれも家族という身近な繋がりにおける人と人の関係の難しさを描いていて、「誰かひとり」では、息子、母、父という3人の登場人物のそれぞれをふたりのキャストの対話で描くことで微妙なブレや揺らぎを生じさせ、「回復する人間」では、おなじシーンを何度も繰り返しつつバリエーションの違いを生じさせることで微妙なブレや揺らぎを生じさせる、シンプルだけれども象徴的な赤い花を舞台奥に配した美術と、効果的な音楽、そして役者さんたちのしっかりとした存在感と相俟って、そんなブレや揺らぎの中から芝居の魅力が立ち上がってくる、そんな素敵な舞台だった。この日は朝からチケットぴあのMyチケットにアクセスできず、チケットを持たずに会場に出掛けたのだけれど、受付で気持ちよく対応していただいて、無事に芝居を楽しむことができた。ご対応いただいたスタッフの方々にも感謝している。