2026年8月28日から8月30日の日程で開催された木曽音楽祭を楽しんできた。昨年、初めて木曽音楽祭を訪れて最終日のコンサートを聴いて、いつか全ての日程を通して聴いてみたいと思ったのだけれど、その思いが強かったのか、翌年に実現させることができた。前夜祭コンサートとフェスティバル・コンサートの1日目を三女と、2日目と3日目を妻と一緒に楽しんで、それぞれにとってそれぞれの曲が魅力的だったのだけれど、三女は前夜祭で演奏されたシューマンのアダージョとアレグロやドヴォルザークの弦楽六重奏曲(第3楽章)が、妻は3日目に演奏されたショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲第8番や2日目に演奏されたメシアンの世の終わりのための四重奏曲が特に印象深かったと話していた。自分にとっては、1日目に演奏されたブラームスの弦楽四重奏第3番が、聴き終えた後でシートから立ち上がることも難しく感じられるほどのインパクトで、記憶に長く刻まれる経験になったと思う。木曽から自宅に向かう帰路の車中で、恐らくはこの音楽祭を通じても築かれてきた絆を活かして素晴らしい音楽を届けてくれる演奏者の方々や、そんな音楽祭を長年にわたり支えてくださっているスタッフの方々に感謝しつつ、妻と再訪の計画について話したのだけれど、通し券は発売開始直後に完売といった人気だし、日程を確保できるかどうかも分からず、でも来年も1日だけでもまた聴きに来たいと思っている。
まなざしの奇跡 日本女性写真家の冒険
ヒカリエホールで「まなざしの奇跡 日本女性写真家の冒険」を観た。いろいろな場所でプリントや印刷を観てきた写真もそれなりに含まれていたけれど、初めて観る写真や初めて接する写真家も多く、今回の展示では西村多美子の写真に出会って心を惹かれた。写真集を買って帰りたかったんだけれど、どれにしようか悩んでしまい、結局ポストカード一枚だけ。あと、蜷川美花の映像作品「Dancing with Shadow in the Light」にも心惹かれて、6分ほどの作品ということもあって3回繰り返して観てしまった。水と空気と光と生命、そんなシンプルなものたちで世界はこんなにも豊かで美しい、そんな発見を改めて感じさせてくれる美しいモノクロームの映像と、編集と音楽のリズム感が心地よかった。会期末が近いので混み合っているだろうかと心配して出たのだけれど、そこまでの人出ではなく、ゆっくりと楽しむことができた。
東京シティ・フィル第385回定期演奏会
東京オペラシティで藤岡幸夫が指揮するTCPOの第385回定期演奏会を聴いた。1曲目はディーリアスの幻想曲「夏の庭で」、2曲目は宮田大をソリストに迎えた菅野祐悟のチェロ協奏曲「十六夜」、宮田大のアンコール「荒城の月」と休憩を挟んだ後半にシベリウスの交響曲第2番というプログラムだった。どの曲も大らかで伸びやかな自然の描写が印象的で、特に「夏の庭で」は初夏の早朝をそのまま捕まえてきたような魅力を感じたりもした。宮田大のチェロも、何度か聴く機会はあったものの、今回の演奏は特に旋律の美しさが印象的で、チェロ協奏曲でもその魅力が感じられたし、アンコールに演奏された「荒城の月」でも、シンプルだけれども丁寧に磨かれた深みのある演奏が素晴らしかったと思う。
海街diary
たまに、数年に一度くらい「海街diary」(是枝裕和監督)を観たくなる。今回はクレジットを眺めながら改めて吉田秋生のコミックが原作だったんだと思ったりして、手に入れて読んでみた。吉田秋生の作品は、学生の頃からたまに「十三夜荘奇談」を本棚から取り出して読み返すことがあって、「海街diary」にも同じ生命への優しさを感じる。もっと年輪を感じさせる台詞や展開も多くて、何となく自分もそれなりに歳を取ったんだろうな、と感じさせられたりもする。我が家の三姉妹も香田家の三姉妹と同じような年頃になり、近頃は妻も姉妹に加わって四姉妹のように見えたりもする。家族はこれからも歳を重ねていくけれど、この作品の中の四姉妹はいつまでもこの作品のままで、そんな四姉妹に会いたくなって、また、たまにこの映画を観たり、原作を読んでみたりしたくなるんだろうな、と思ったりしている。
戦争レクイエム
すみだトリフォニーホールで高関健が指揮する東京シティフィル、東京シティフィルコーア、江東少年少女合唱団の演奏でブリテンの「戦争レクイエム」を聴いた。ブリテンが指揮した1963年の演奏のCDは手元にあって、1度か2度は聴いたことがあるものの、コンサートで聴くのは初めての耳馴染のない曲で、どこまで聴けていたか覚束ないのだけれど、聴き終えて最初の印象は、感動や情熱を受け取ったというよりも、おそらく演奏がかなり難しいであろうこの作品をきちんと届けて頂いたといった感じだった。ソリストの木下美穂子、宮里直樹、大西宇宙はそれぞれに素晴らしく、合唱もTCPCは過去に何度か聞いた演奏よりも分厚い印象を受け、天上から降り注ぐ江東少年少女合唱団の歌声も美しく、室内楽オケもフルオケも確実な演奏だった(出番の多い金管が頑張っていたように聴こえた。)と思うのだけれど、歌われる詩の日本語訳を事前に読み、演奏中も両袖に投影されていたとはいえ、その言葉の難解さが高揚や共感を踏みとどまらせていたような気もする。もっともその難解さは、おそらく即物的な理解を拒む誠実さでもあって、この日の演奏もその誠実さに根差していたのかもしれない。第2次世界大戦から80年以上が経過して、その後も世界各地で戦争が続いてきたとはいえ、「戦争」がその生々しさを失って抽象化され、戦争を否定するにせよ正当化するにせよ、ともすれば安易に戦争を語ってしまいかねない恐ろしさを感じる昨今、そういった言葉たちから距離を置いてこの作品と向き合う時間を持つことは、貴重な経験だったように思える。