Last Days 坂本龍一 最期の日々

NHKスペシャル「Last Days 坂本龍一 最期の日々」を観た。録画した番組を3回も繰り返して観たのは、人の死に思いを馳せる貴重な機会だったこともあるけれど、この番組から広がって舞い戻る行ったり来たりの動きを繰り返したこともある。坂本龍一の病室のテーブルに重ねられていた本の一冊がタルコフスキーの「映像のポエジア」だったので、本棚から取りだして「序章」や「音楽と騒音」などところどころを読み返し、タルコフスキーの映画を3本を観た。「ほくはあと何回、満月を見るだろう」の中でタルコフスキーの映画音楽を意識したと書かれていた「async」を何度か聴いて、どの映画だろうと思いを巡らせたり、「12」を聴いて同じことを考えたりもした。この本に登場する谷中の古本屋に出掛けた折に購入してあった鶴見俊輔の「埴谷雄高」を読み、埴谷雄高の文章もいくつか読み、埴谷雄高について坂本龍一を含むいろいろな人にインタビューをした本を読んだりもした。そんなことをしながら、また番組を観たりしていたので、3回も観ることになった。久しぶりに手に取った「映像のポエジア(Sculpting in Time)」に改めて興味を覚えたので再読してみたいし、残りのタルコフスキーの映画も観たい(「ローラーとヴァイオリン」のDVDが発売されていたことを知って、買ってしまった。)。「映像のポエジア」と一緒に重ねられていた本も読んでみたいし、坂本龍一の本棚にあったグレーバーの「負債論」も積読になってしまっている。そんなこんなで、これからも時間をかけて坂本龍一を思い出しながらの行ったり来たりを繰り返すことになるような気がする。結局のところ、自分にとって坂本龍一はまだ死んでいないのだろうと思う。

2024年4月は50キロ+Walk

2024年4月の月間走行距離は50キロだった。先月よりも少し増えたし、4月中も前半が15キロ、後半が35キロだったので、多少走る距離が伸びてきたといって良さそうに思える。もっとも、年号が令和に変わったGWのときは10日間で100キロ走っていたのだから、まだまだこれから、まずは月100キロまで増やしていきたい。

La Mère 母

東京芸術劇場シアターイーストで「La Mère 母」(作:フロリアン・ゼレール、演出:ラディスラス・ショラー)を観た。同じ場面や重なり合う場面を塗り重ねて人間を重層的に描き出す方法が興味深く、前日に映画「ファーザー」を観たこともあり、「La Mère 母」のこの方法の延長線上に「Le Père 父」があることが感じられた。「ファーザー」のアンソニー・ホプキンスも凄かったが、「La Mère 母」の若村麻由美も様々な人格を走りながらカラフルに演じていく姿が素晴らしく、自分にとっては「Le Fils 息子」よりも「La Mère 母」の方が数段楽しく感じられた。(「Le Fils 息子」の時よりも客席には芝居好きの方が多かったかもしれない。)もっとも、展開のスピード感もあってか人物の描き方にやや紋切型な印象を受けることもあって、若村麻由美がアンヌを演じた「Le Père 父」の舞台も観たかったなぁ、と思ったりもしている。

ファーザー

映画「ファーザー」(フロリアン・ゼレール監督)を観た。フロリアン・ゼレールの「Le Fils 息子」の舞台を観て、これから「La Mère 母」の舞台を観るタイミングで、3部作のひとつ「Le Père 父」の映画版を観たのだが、これは面白い映画だった。認知症を患う老境の父親という家族や社会の課題を素材として描きつつ、認識や記憶という人間の根幹に関わる不穏さや不安を美しく静かな室内映像で綴っていく時間は知的にスリリングで、最近、東京都写真美術館で記憶に纏わる展示を観たことや、響きと怒りを異なる翻訳で再読していることもあってか、いろいろと好奇心や思考を掻き立てられた。舞台と比較すると映画は情報量が多く、舞台では余白を含めて場の雰囲気や気の流れを全体として味わっているように改めて感じられる一方で、映画では(観てきた本数が多いからかもしれないけれど)細部に目が行く、特にこの映画では俳優たちの一瞬一瞬の表情を味わっていたように感じる。メインキャストのどの俳優も素晴らしかったと思うのだが、この映画の屋台骨を支えるアンソニー・ホプキンスの凄みには改めて感銘を受けた。老境の「父」に「母」を探させたフロリアン・ゼレールが、どんな「La Mère 母」の舞台を書いていたのか、今から舞台が楽しみである。

東京都写真美術館の3つの写真展

東京都写真美術館で、「TOPコレクション 時間旅行」、「記憶:リメンブランス」、「没後50年 木村伊兵衛 写真に生きる」を3階、2階、地下1階と梯子して観た。記録としての性格を感じやすい古い写真が多く、時間旅行や記憶や没後という言葉たちにも引っ張られるように写真と記憶について、誰かが撮った写真やその写真に写り込んだものと、写真を撮った誰かや、その写真を見た誰か、その写真に写りこんだものを観た誰かやその写真の写り込んだ誰かの記憶がどう交わるのか、もともとある交わりを写真が掬い上げたり、写真が新たな交わりを作りだしたり、いい写真、あるいはいい写真たちって何なのか、線の細かさと甘さ、コントラストの硬さと軟らかさ、モノクロとカラー、画角、ライティング、露出、スピード、サイズ、技術的なことはいろいろあるけれど、そういえば最近の福田平八郎を取り上げたNHKの日曜美術館で千住博があの漣の絵を観ながら「アートは観た人の記憶に触れることが大切で、それが普遍性」といったようなことを言っていたなぁ、などと思い出しながら取り留めもない考えを巡らせた。途中で腰を下ろして一休みしながらグエン・チン・ティの「バンドゥランガからの手紙」を観たのだが(思わず最初から最後まで35分間の全編を観てしまった。)、ポートレート=顔には、その人だけでなく、その人に至る土地や文化や民族の長い歴史の記憶が写り込んでいるように感じられた。