夜クラシックVol.36 大谷康子・福間洸太朗

文京シビックホールで「夜クラシックVol.36 大谷康子・福間洸太朗」を聴いた。「”夏目漱石と月”に寄せて」という副題ではあるのだけれど、大谷康子のヴァイオリンは豊穣の女神といった印象で、明るく伸びやかで艶があり、大地に根をおろし空に向かって伸びた草木が光を浴びて風に揺れるようなイメージ、対して、福間洸太朗のピアノは虚飾なく端正で理知的、しかし特にプログラム後半の月光ソナタの3楽章からは端正で理知的なまま力強く異界に踏み込んでいくようなゾーンに入ったパワーを感じさせられた。そんな太陽と月のような二人がヴァイオリンとピアノという異なる楽器で奏でる音がせめぎ合うプログラム最後のフランクのヴァイオリンソナタは、演奏家や楽器の個性について改めて考えさせらる味わい深く魅力的な演奏だったと思う。プログラム前半もいずれも素敵な選曲と演奏で、山田耕作の荒城の月変奏曲、幸田延のヴァイオリンソナタ第1番第1楽章、貴志康一の竹取物語には、日本における西洋音楽の受容と発展の歴史を感じさせられた。西洋音楽と日本的なリズムや響きが無理なく絡み合う1933年に作曲された竹取物語の現代的な佇まいや、境界を超えることを恐れない内省的な冒険心を持って描かれたように感じられるホルストの夜の歌に特に魅力を感じた。こんなに素敵なコンサートが3000円で楽しめるというのは、自分にとっても世の中にとっても大変に有難いことで、チケットは完売だった。演奏者や関係者の皆様に感謝したい。

トレヴァー・ピノック/紀尾井ホール室内管弦楽団

東京文化会館小ホールで、東京・春・音楽祭の「トレヴァー・ピノック指揮 紀尾井ホール室内管弦楽団」を聴いた。トレヴァー・ピノックの名前を知ったのは高校2年生の夏に村上春樹の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を読んだときだった。主人公がレンタカーの中でトレヴァー・ピノックのブランデンブルクを聴いていた。その後でピノックのブランデンブルクを図書館かどこかで探して聴いてみたのか、今となっては記憶がないけれど、おそらくリヒターやカザルスの録音も探してみたんだろうと思う。ブランデンブルクは何故か年末年始に聴くことが多い。我が家のCD棚にはレオンハルトの録音しか見当たらないので、毎年レオンハルトを聴いてきたのだろう。前置きが長くなったけれど、今日の演奏はブランデンブルクの第3番とゴルドベルク変奏曲で、後者がメインのプログラムだった。ゴルドベルクは繰り返しを省略しない演奏で、第15変奏と第16変奏の間に休憩が入った。活き活きとした弦楽も素晴らしかったけれど、木管(特にクラリネット)の演奏が印象深かった。そもそも小規模なオーケストラのために書かれた曲であるかのように、それぞれの旋律がそれぞれの楽器の響きに馴染んでいるように感じられたのだけれど、やはりピアノの演奏も聴いてみたくなって、帰宅してからロザリン・テューレックの演奏を聴いた。

響きの森クラシック・シリーズVol.83

文京シビックホールでケンショウ・ワタナベが指揮する東フィルの「響きの森クラシック・シリーズ Vol.83」を聴いた。1曲目はベルリオーズの序曲「海賊」で、いつもよりもやや重心が高く、光沢のある繊細な音色で、息の長いフレーズを丁寧に歌いながら紡いでゆく音楽、といった印象を受けた。このオーケストラのロッシーニとかも聴いてみたいなぁと思ったりした。2曲目はソリストに辻彩奈を迎えたグラズノフのヴァイオリン協奏曲で、辻のやや重心が低めの落ち着いて伸びやかな音色のヴァイオリンが素敵だった。3曲目はベートーヴェンの交響曲第6番「田園」で、どことなく演奏に若々しさを感じた。元気が良いとか威勢が良いというわけではなく、颯爽とした立ち姿の指揮者の影響だろうか、何割かの奏者が10歳くらい若返って演奏しているような、そんな気持ちの若々しさと嬉しさが感じられる演奏に思えた。昨年聴いたチョン・ミュンフン/東フィルや井上道義/都響の田園も素晴らしかったけれど、今日の演奏もまた違った魅力に溢れた素晴らしい演奏だったと思う。

小石川植物園(冬から春)

24節季毎に小石川植物園を散歩して写真を撮る遊びも、ついに啓蟄で一周を完了した。1年を通して訪れてみると、季節の移り変わりを感じるし、あの樹やこの草花が親しく感じられるようになってくる。冬は、乾いた空気と澄んだ光、葉を落とした木々の樹影が印象的だった。春は、梅に始まる印象もあるけれど、あの深く豊沃な土の中で始まっているような気もする。カメラ遊びは、再びCentral Tokyo, Northに戻ろうかと思っていて、小石川植物園に通う回数は減るかもしれないけれど、これからも年間パスを購入して定期的に訪れてみようと思っている。小石川植物園の写真はこちら





東京シティフィル第377回定期演奏会

東京オペラシティで高関健/TCPO/TCPO CHORが演奏するヴェルディのレクイエムを聴いた。フォーレやモーツアルトのレクイエムと比べても、この曲を聴く機会は少なかった。殆ど聴いて来なかったと言った方が良いかもしれない。手元にある録音もトスカニーニ/NBC(1943年)だけで、このCDも最後に聴いてからおそらく10年以上は経っているだろう。けれども、第1曲冒頭のチェロの下降する短い旋律が始まって、ヴァイオリンの音が聴こえて来ると、その時点で鳥肌が立った。タルコフスキーのノスタルジア。熱い水を渡り終えて倒れ込むアンドレイに捧げられる音楽。このレクイエムの旋律はあの映画の記憶と分かちがたく結びついていて、音楽を聴きながら映画館の暗闇が周囲に流れ込んでくる。そんな夢現の境界を行きつ戻りつしていた意識は「怒りの日」の響きの圧倒的な迫力に一気に覚まされて、その後は音楽を造り上げようとする意志が形になったような高関健の指揮と、それに全力で応えるTCPOとTCPO CHORの演奏と、素晴らしいソリストの歌(ソプラノの中江早希の歌は素敵だったなぁ)に否応なく運ばれていくことになるのだけれど、第9曲でもまた出会うこととなるあの旋律には、やはりどうしようもなく心を動かされてしまう。そんなこんなで、帰宅後、余韻の冷めやらぬままにノスタルジアを観てしまった。