TRIO パリ・東京・大阪 モダンアート・コレクション

東京国立近代美術館で「TRIO パリ・東京・大阪 モダンアート・コレクション」を観た。34のテーマ・コンセプトについて3つの美術館から異なる作家の共通点のある作品を持ち寄って展示するというキュレーションが面白かった。出品作家は110名ということで、多くの作家の作品に接することができたし、TRIOを組んだ作品同士の響き合いや、作家同士の(過去の歴史を通じた)繋がり、作品を購入し、また今回の展覧会のために選定した美術館(学芸員)の思いにも想像が及んだりして、様々な楽しみ方を用意してくれた展覧会だったと思う。個々の作品を取り上げてみても、藤田嗣治の「五人の裸婦」や萬鉄五郎の「裸体美人」といった有名な作品だけでなく、先日の国立西洋美術館の展覧会でも印象深かった辰野登恵子の作品や、アーティゾン美術館の「赤い鬼」を思い出させる菅井汲の「風の神」などなど、個人的には見応えのある作品が多かった。先週回顧展に出掛けたキリコの絵も、ブランクーシの頭部像の隣にあると、魅力が増すような気もした。会期末ということもあってか男女問わず幅広い世代の多くの人たちが来場していたけれど、落ち着いた雰囲気が保たれていて、ゆっくりと観て回ることができた。

デ・キリコ展

東京都美術館で「デ・キリコ展」を観た。お盆休みの時期ということもあってか会場が混み合っていたことや、いまひとつキリコの絵に心を寄せられなかったこともあって、小一時間で会場を後にすることになった。特に20代前半の頃に好んで聴いて、肖像が大きくプリントされたTシャツを着たりもしていたセロニアス・モンクのジャケットの絵に出会えたり、あの頃にキリコの「放蕩息子の帰還」の絵葉書を部屋に飾っていた時期があったことを思い出したりもしたのだが、今の自分はキリコとの距離が遠く感じられるというか、少しねじれの位置にいるようで、いまひとつ揺さぶられないのかもしれない。会場には若い人が多くて、自分が年寄りになって感性が鈍ってきたのか、間口が狭くなってきたのか、ちょっと寂しい気がしたりもした。

タルコフスキー・映像のポエジア

アンドレイ・タルコフスキー著「映像のポエジア」(鴻 英良訳、キネマ旬報社)を読んだ。NHKの「Last Days 坂本龍一 最後の日々」に映された坂本龍一の病室のテーブルにこの本があり、35年ぶりに再読した。20歳の頃、タルコフスキーの何本かの映画は何度か映画館に通って繰り返し観ていて、千石にあった三百人劇場の特集上映に通ったりもしていたのだけれど、この本を読んでも分からないことばかりだったのではないかと思う。タルコフスキーの享年を超えた歳になってから読んでみても、共感するところや、違和感を覚えるところもありつつ、分からないところが多い。丁寧な日本語訳から全く分からないロシア語での思考をイメージしつつゆっくりと読むと、イメージが湧いてくるような気がする箇所もあるのだけれど。とはいえ、分からないものの持つ気配や雰囲気を感じようと努力することも、貴重な体験だろう。この本を読みながら、自宅にあるディスクでタルコフスキーの8本の映画を古い方から順番に観ていった。よく言われるようにタルコフスキーの映画も「分からない」のだけれども、特に後半の4本は、何故だか理由は分からないままに、観ていて鳥肌が立つのである。ラスト近くの、「鏡」の家族が草原を下りてくるシーン、「ストーカー」の家族が水辺を歩くシーン、「ノスタルジア」の熱い水をわたるシーン、「サクリファイス」のマリアが自転車で立ち去っていくシーン、他にも気が付くと知らぬ間に深く動かされているシーンがいくつもある。詩というのはこういうものなのだろう、と感じさせてくれる大切な映画たちである。
余談だが、栞にしていたようで、この本に「存在の耐えられない軽さ」の前売券が挟まっていた。丸の内ルーブルに観に行って、タルコフスキーへのオマージュを感じた記憶がある。わが家の子供達もこの映画は観ていて、原作を読んだりもしているようなのだが、そのうちにタルコフスキーも観てもらいたいものだと思う。

ロザリン・テューレック

図書館で借りた「会田綱雄詩集」について書いたついでに、その少し前に図書館で借りたロザリン・テューレックの「ゴルドベルク変奏曲」についても書いておこうと思う。阪田智樹がラジオで紹介していた演奏を聴いて心惹かれて、自宅に録音があるか探してみたところ、Great Pianist of the 20th Centuryの94巻に1957年の録音が入っていた。この演奏も素晴らしかったのだが、1998年に84歳のテューレックがグラモフォンで録音した演奏を聴いてみたくてネットで探してみたところ、どこも品切れだったのだけれど、地元の図書館で借りて聴くことができた。1957年の演奏も1998年の演奏もゆったりとしたテンポで、流れゆく景色を身を任せるというよりも、ひとつひとつの音やフレーズから立ち上がるイメージを詩の朗読のように味わう魅力があるように感じられた。ゴルドベルク変奏曲というとグールドの2つの録音の印象が強烈で、他の演奏を聴いてもグールドに戻って来るような気がしていたのだけれど、これからはテューレックの演奏を聴く機会の方が多くなるかもしれない。会田綱雄とロザリン・テューレックには、共に1914年生まれという以上の共通点はなさそうだけれど、個人的には図書館の助けを借りて知ることができたという共通点ができた。ロザリン・テューレックのCDはラジオで紹介されたためか予約が3つ入っていて、ちょっと嬉しかったりもして。宮藤官九郎のドラマの影響か我が家の奥さんを加えて20人以上も予約が入っていた山本周五郎の「季節のない街」には負けたけれど。

会田綱雄詩集

母親から頼まれて実家から持ち帰った書籍の段ボールの中に、妹が中学校の先生から卒業祝いにもらった茨木のり子の「詩のこころを読む」(岩波ジュニア新書)が紛れ込んでいて、何となく読み始めたまま最後まで読み終えてしまったのだが、その中で紹介されていた会田綱雄の「伝説」という詩に惹かれて、地元の図書館で現代詩文庫「会田綱雄詩集」(思潮社)を借りて読んだ。図書館が昭和55年に購入した本なので、表紙を捲った扉に返却日付表の小さな紙が貼られていて、一つも日付が押されていなかったのだけれど、「伝説」を含む最初の詩集「鹹湖」に漂う切迫感と緩さのある明度や彩度を抑えた空気感に魅力を感じた。会田綱雄が「伝説」について書いた「一つの体験として」という小文も掲載されていて、詩を読むだけでは知ることのない、この詩の透明な美しさを支えるその奥の深い闇に目を向けさせられた。ここ数年上海蟹の季節になるとくるりの「琥珀色の街、上海蟹の朝」を思い出していたけれど、これからは「蟹を食うひともあるのだ」と静かに語るこの詩のことも思い出すことになりそうだ。