2023年3月は100キロ+Walk

2023年3月の月間走行距離は100キロだった。久しぶりの100キロである。このブログを見ると、2021年12月から2022年3月までの4か月は毎月100-120キロを走っていたようなので、1年ぶりということになる。寒さが緩んできたことや、カメラ散歩の回数が減ったことも理由だが、ちょっとモチベーションが上がったことが一番の理由かもしれない。秋のハーフマラソンと、来春のフルマラソンに向けて、毎月の目標を立ててみることにした。昔の記録証を見ると、ハーフは1時間48分15秒、フルは3時間59分30秒(ネット)がベストタイムで、この40代の記録に50代で近づけるか(超えられるか?)、挑戦してみたいような気もしてきている。

Central Tokyo, North – 後半30駅へ

山手線北側半分のJRと東京メトロの駅の周辺を散歩して写真を撮る企画(Central Tokyo, North)も前半30駅を終えて、後半30駅に入ることになった。今までに回った駅は、巣鴨、駒込、田端、西日暮里、日暮里、鶯谷、上野、御徒町、秋葉原、神田、東京、四谷、新宿、新大久保、高田馬場、目白、池袋、大塚、新大塚、千石、千駄木、根津、湯島、上野広小路、末広町、新御茶ノ水、小川町、大手町、竹橋、九段下の30駅、これから回る駅は、半蔵門、麹町、市ヶ谷、曙橋、四谷三丁目、新宿御苑前、新宿三丁目、東新宿、若松河田、牛込柳町、早稲田、西早稲田、雑司ヶ谷、東池袋、護国寺、茗荷谷、白山、本駒込、東大前、後楽園、本郷三丁目、御茶ノ水、淡路町、神保町、水道橋、飯田橋、牛込神楽坂、神楽坂、江戸川橋、春日の30駅を予定している。毎月3駅を回ると来年1月に回り終えることになる。後半戦は、散歩の雑感をBlogにも書いてみようかと思ったりしている。

第12回音楽大学フェスティバル・オーケストラ

東京芸術劇場で第12回音楽大学フェスティバル・オーケストラの演奏を聴いた。首都圏の9つの音楽大学の学生から構成されるオーケストラが井上道義の指揮でどんな演奏をするのかが楽しみで出掛けたのだが、期待していた以上の素晴らしい演奏だった。「春の祭典」や「天体の音楽」も良かったのだが、北海道の風土を感じさせる大らかでスケール感のある「シンフォニア・タプカーラ」の演奏が心に沁みた。昨年11月に井上道義/N響の「シンフォニア・タプカーラ」を聴いたときよりも素直に音楽が身体に入ってきたような気がする。その理由は、自分のコンディションかもしれないけれど、稠密度や解像度の高いプロオケの音のイメージよりも、スペース感のある学生オケの音のイメージの方がしっくりきたのかもしれない。公演を知ってチケットを購入したのが1週間前だったこともあり、S席(2000円!)は全席売り切れで、3階のA席(1500円!)しか手に入らなかったのだが、オケの音は3階席まで十分に届いてきたので、そんなオケとの距離感が幸いしたのかもしれない。今回初めて聴く機会を得たのだが、来年も音楽大学フェスティバル・オーケストラの演奏を聴いてみたいと思った。

エゴン・シーレ展(東京都美術館)

東京都美術館で「エゴン・シーレ展」を観た。エゴン・シーレを初めて知ったのは中学生だった頃で、同級の友人から教わった記憶がある(誕生日が近いこの友人からもらった「ライ麦畑でつかまえて」や「ランボーの生涯」は今も我が家の本棚にある)。高校生の頃に伊勢丹美術館で開催された「エゴン・シーレとウィーン世紀末展」を観に行き、この時にポストカードを買った「哀しみの女」を表紙にした五木寛之の同名の小説を書店で見つけて購入したのは大学に入ってからだったと思う(この本も本棚にあった)。その後は特にシーレと接点があった記憶はないのだが、数年前に妻と三女がオーストリアとチェコを旅行した時に、ウィーンのレオポルド美術館やチェスキー・クルムロフのエゴン・シーレ・アートセンターでシーレの絵を観てきたという話を聞いた。とはいえ、シーレについて学んだことはなく、何となくあの画風のような独特の孤独な内面を抱えて世間と折り合いがつかぬまま短い人生を終えた画家といったイメージを持っていたのだが、今回の展示からは、むしろシーレの世俗的で外連味もある姿を感じた。クリムトにも似た印象を持ったこともあり、やはりあの時代のウィーンの雰囲気なのだろうか。

東京シティ・フィル第359回定期演奏会(ショスタコーヴィチ交響曲第7番レニングラード)

東京オペラシティで高関健指揮/東京シティ・フィルのショスタコーヴィチ交響曲第7番「レニングラード」を聴いた。昨年6月にクラウス・マケラ指揮/都響の演奏を聴いて以来の「レニングラード」だったのだが、二つの演奏の手触りはかなり違ったものに感じられた。昨年6月の演奏を聴いた後のこのブログの記事(こちら)を見ると「確かに音楽は美しかったし…音楽は音楽として楽しむべきなのだろうが、ロシアによるウクライナ侵攻が進む最中にこの曲を演奏することにはそれなりの意味があるはずなのだが、と考えてしまったり、この曲の中に組織や理念や構造ではなくパーソナルな視線を、個人に根差した私的な抵抗の視線を自分が見出せなかったからかもしれない…優れた演奏ではなくとも、今日とは違う「レニングラード」もあり得たのではないかと感じていた」とある。昨年6月の演奏が均整の取れた美しい音楽だったとすると、今回の演奏から感じたものは、ソロも大編成のオケも素晴らしかったのだが、やはり、複数の異なるベクトルの力が混在しながらシャープに像を結んでいくような「いびつさ」だったように思う。その「いびつさ」が、フィナーレで人間の主題を奏でつつ最後の四音にVictoryではなくSOSを感じさせるような引き裂かれた歌の切実な響きを生み出していたような気がする。演奏後の拍手は心のこもった分厚い音がして、オケの退場後も多くの聴衆が高関健の姿を待ち続けスタンディングオベーション送っていた様子が印象的だった。