遅ればせながらヴィム・ヴェンダース監督の「Perfect Days」を観た。初めて観たヴィム・ヴェンダースの映画が何だったのかもう思い出せないけれど、初めて封切で観た映画は「ベルリン・天使の詩」で、その前に「パリ、テキサス」、「ことの次第」、「ハメット」、「アメリカの友人」、「さすらい」、「まわり道」、「都会のアリス」といった作品は名画座に通って観ていたと思う。自分にとってのヴィム・ヴェンダースの映画はこの頃に観た映画たちで、中でも何故か「さすらい」が好きだった。今回、配信サービスで「Perfect Days」を観た後で、自宅のDVDの棚を眺めながら何を観ようかと少し悩んでから、久しぶりに「さすらい」を観て、それから「アメリカの友人」を観た。50年前に撮られた映画を観ると、やはり若さの魅力を感じるのだけれど、もう若いとは言えない「Perfect Days」にも共通する匂いのようなものを感じる。3本の映画は、白黒フィルム、カラーフィルム、そしてデジタルと映像の質感は全く異なるのに、どの映画からも何処となく成熟を拒むようなナイーブさとでも言おうか、そういう匂いを感じるのである。「Perfect Days」を観た後で、映画の中で主人公の平山が読んでいたフォークナーの「野生の椰子」、幸田文の「木」、パトリシア・ハイスミスの「11の物語」を読んでみた。幸田文の文章も良かったけれど、「野生の棕櫚」の「Old Man」の章は、The old man and the seaに続くような自然と人間の関わりをダイナミックに描き込んだ文章で、「良く分からないけれど凄いことは分かる」といった強烈な存在感があった。「Perfect Days」については、インテリによる単純労働の美化だといった批判もあるそうで、それはそれで分かる面もあるのだけれど、自分にとってはいろいろなことを思い起こさせ、また考えさせてくれて、新たな出会いや繋がりをもたらしてくれた素敵な映画である。
2024年の読書・映画・演劇
2024年に読んだ本は50冊、観た映画は30本、観た芝居は13本だった。振り返ってみると、緩やかなテーマを持って楽しんだというよりも、やはり雑食系としか表現できないようなラインアップである。「映像のポエジア」を再読したこともあり、映画はタルコフスキーの全作品を観たのだが、例えば同時代のロシア映画を観るといった深め方はしていない。残された年月の長さを考えるといつまでも雑食を楽しんでいるだけでは悔いが残るのではないかと、毎年この時期になると反省させられる。2025年の読書・映画・演劇については、正月休みにゆっくり考えてみたい。
2024年12月は5.5キロ+Walk
2024年12月の月間走行距離は5.5キロだった(55キロではない)。エントリーしていたハーフマラソンもDNSで、来月のハーフマラソンもDNSだろう。ランニングへのモチベーションが下がっていて、ちょっとどこかで立て直さないと。
Love Letter
中山美穂が亡くなったというニュースを見た後で、岩井俊二監督の「Love Letter」をDVDで観た。その後、夕食を食べながらだったけれど、居間のテレビでU-NEXTの配信を2回も観てしまった。もともと好きな映画で手元のDVDも何度か観ているのだけれど、今年は小樽に2回も旅行に出かけたこともあって、短い間に繰り返して観てしまったのかもしれない。以前は加賀まりこに魅力を感じたけれど、范文雀も素敵だよなぁと思って調べてみると、中山美穂と同じ歳で亡くなっていて、50代半ばで人生を終えることについて何度か繰り返して思いを巡らせることになった。
「Love Letter」を配信で観た際に、遅ればせながら岩井俊二監督が撮った「Last Letter」を知り、こちらも3回観てしまった。(「チィファの手紙」も1回観た。)50代半ばだった岩井俊二の仕事により巧みさや滋味深さを感じるのは、自分も歳を取ったからだろうか。
N響第9
NHKホールでファビオ・ルイ―ジが指揮するNHK交響楽団のベートーヴェン交響曲第九番を聴いた。年末の第九を初めて聴いたのは大学1年生か2年生の時で、家庭教師をしていたご家庭に招いて頂いてNHKホールでN響の第九を聴いた。指揮者も演奏ももう憶えていないけれど、佐藤しのぶがソリストだった。その後、子供たちがある程度育ってからはほぼ毎年いろいろな国内オーケストラの年末の第九を聴いてきた。同じ曲をコンサートで聴いた回数を数えたら、第九が間違いなく一番多いだろう。改めて考えてみると、この異形にも思える交響曲が最もよく聴かれているというのも面白い現象だと思う。作曲当時の革新性が持ち続ける勢いやパワーに加えて、耳を患ったベートーヴェンが最後に作曲したスケールの大きい交響曲で、昔から特別な機会に演奏されてきたといった物語の力もあるだろう。今回の第九は、そういったやや派手目でキャッチ―な高揚感よりも、もう少し内省的で、「楽聖」ではなく「人間」ベートーヴェンを感じさせるような、やや重心を低めに取った演奏に感じられた。そう思えたのは、時としてやや遅めに感じたテンポのせいか、アタックと比較して軽くなる演奏の語尾の優しさのせいだろうか。いずれにしてもそれぞれの奏者の確実な技量に支えられたオーケストラとしての一体感のある演奏で、やはりN響にはN響の魅力と存在感があるなぁと改めて感じた。マロ(篠崎史紀)と郷古廉の二人がコンマスとしてステージに現れた時、会場からひときわ大きな拍手が沸き上がった。マロは今年が最後のN響第九となるらしい。そんな演奏に立ち会うことができたことを嬉しく思っている。