フランクフルト放送交響楽団

所沢ミューズのアークホールでアラン・アルティノグルが指揮するフランクフルト放送交響楽団の演奏を聴いた。全体を通じて、オーケストラの響きの軽やかさや自由闊達さといった雰囲気が印象深かった。統率された求心的な音楽というよりも、奏者が緩やかに繋がりながらアンサンブルを編み上げているような分散的、非中心的な響きというか、輪郭線や構造というよりも、(長くフランクフルト放送響を指揮したインバルと都響の演奏にも感じることがあるのだけれど)色彩や香りのイメージを感じた。1曲目のマイスタージンガーの前奏曲に続く2曲目はベートーヴェンの皇帝で、初めて聴くブルース・リウのピアノを楽しみにしていたのだが(やはりファンが多いようで、終演後のサイン会には長蛇の列ができていた。)、テンポや強弱と呼応しつつ音の彩度やコントラストが豊かに変化する鮮やかな演奏だったと思う。伝統に則った正統派の音楽というよりも、新しい表現を求める個性や探求心、あるいは時として自由な遊び心のようなものも感じた。アンコールのチャイコフスキーの小品(あまり弾かれない曲のようだが、三女は弾いたことがあるらしい)と休憩をはさんで3曲目の展覧会の絵では、ロシア的な音楽というよりも、ラヴェルらしい多彩な響きを堪能し、アンコールに演奏されたドビュッシーの月の光には、日本との繋がりを感じたりもした。最後まで充実したコンサートで、演奏後は立ち上がって拍手や喝采を送る聴衆も多かった。実家の母を誘ったこともあり、初めて所沢ミューズに出掛けたのだが、母も妻もコンサートを楽しんでくれたようで、良い思い出になった。

野反湖

奥さんとふたりで紅葉の野反湖に出掛けてきた。早朝に自宅を出て、午前中に湖畔を一周した。秋晴れの青空が広がる気持ちの良い一日だった。下の写真では紅葉らしいシーンを切り取っているけれど、富士見峠から眺める白樺はまだまだこれから紅葉といった雰囲気。写真を確認すると、昨年は10月14日に、一昨年は10月8日に野反湖を訪れていて、どちらの日も紅葉はほぼピークだったようだけれど(その前の年は10月17日で、紅葉は終わりかけ)、今年のピークは10月20日頃まで遅れるかもしれない。20年くらい前は10月初旬が紅葉のピークで、20日を過ぎると木々はすっかり落葉していたように記憶しているのだけれど。

「家庭」の誕生

本多真隆著「「家庭」の誕生」(ちくま新書)を読んだ。書店で見かけて気になったものの買わずに帰り、図書館で借りて半分ほど読んだところでやはり購入したくなって手に入れた。明治以降の「家庭」や「家族」を巡る社会環境やイデオロギーの歴史を取り纏めた著作で、自分にとっての「家庭」の位置づけや意義づけを相対化して考えを深める上で大変役立つ書物に思えた。おそらく部分部分であっても比較的頻繁に再読することになりそうな気がする。最近、自分と家族との関係を期間を区切って思い返す「内観」を知って、本を読んでみたり実際に試みてみたりしたからか、改めて鶴見俊輔、浜田晋、春日キスヨ、徳永進の共著「いま家族とは」を再読したり(「いま」と言っても1999年の出版で、既に鶴見と浜田は鬼籍に入っているが)、東浩紀の「観光客の哲学」を拾い読みしたり、TBSの「西園寺さんは家事をしない」の「ニセ家族」が気になったりしていて、この流れは当分続きそうな気がする。特に東浩紀が指摘する家族の拡張性、鶴見俊輔がいう「その他の関係」に興味があって、「ニセ家族」もそのひとつだと思うのだけれど、家庭でも職場でも、人と人の関係性をより深く考える上で良い切り口を提供してくれるような気配を感じている。

響きの森クラッシック・シリーズVol.81

文京シビックホールで小林研一郎が指揮する東フィルの「響きの森クラシック・シリーズ Vol.81」を聴いた。1曲目の神尾真由子をソリストに迎えたベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲は、ソリストの芯の通ったしなやかな音色と技巧を追いかけつつも、残念ながら睡眠不足等で体調が芳しくなく、集中しきれなかったのだけれど、2曲目のベルリオーズの幻想交響曲からは復活し、第1楽章からコバケンの指揮に応えて全身を鳴らしきるオーケストラの響きを堪能させてもらった。それにしても、84歳にしてあの複雑怪異な幻想交響曲を諳んじて全力で創り上げていくコバケンの姿には頭が下がる。今年7月に朝日新聞で連載された「人生の贈りもの」を拝読させてもらったが、「井上道義君は今年で引退だと言っているそうですね。3か月もすればまた戻りたいと言うでしょう。僕も還暦の頃に本気でやめようと思ったけれど、無理でした。お願いされたコンサートは、引き受けたくなってしまう性格のせいかもしれません。」と書かれていたコバケンには、これからもお体を大事にされつつ素晴らしい音楽を届けて頂きたいと願っている。(井上道義にも続けてもらえると嬉しいのだけれど。)次回のTCPOの定期演奏会でコバケンが指揮するチャイコフスキーがどんな体験になるのか、楽しみにしている。

東京シティ・フィル第373回定期演奏会

東京オペラシティでTCPOの第373回定期演奏会(スメタナ:連作交響詩「わが祖国」全曲)を聴いた。高関健が指揮する姿には迷いがなく、オーケストラの音に揺るぎのない意思や逞しい技術を感じる一方で、高校生の頃に購入したという楽譜を手元に置きながら開くことはなく、これとは異なる「チェコ・フィルの伝統的なパート譜に基づく「現実演奏版」」の楽譜を暗譜で振り切る高関健の姿には、この曲でオーケストラの音楽を勉強したという若い頃の高関健の姿が重なって、その音に若さと瑞々しさの輝きが加わっているように感じられた。ステージ上だけでなく、演奏に触発された客席からもいつも以上の集中力が感じられて、それもチケット1枚ウン万円といった会場のやや尖ったオーラではなく、第二曲の終わりに思わず「ブラボー」がかかり、それを何人かの楽員の方が喜んでくれている様子が見えるような温かなオーラがあって、でもその「普通の観客」の集中力がステージ上に無音の圧力を作り出して、その温かく力強い無音とオーケストラの音とが鬩ぎ合いつつ音楽を削り出していくスリリングな空気がすぐそこに感じられるような、特に音が減衰しあるいは短く途切れる瞬間には、手に触れられるほどの切迫感が感じられるような、そんな美しいコンサートだったと思う。終演後、名勝負と語り継がれるスポーツの試合を観戦した後のような充実感があった。開場から「ブラボー」のコールとともに「ありがとう」という声も飛んでいたが、自分も含めて多くの聴衆が同じ思いだったのではないだろうか。