無縁・公界・楽

網野善彦著「無縁・公界・楽」(平凡社)を読んだ。高校3年生の時に予備校の日本史の講義で「大学に入ったら読んでみてください」と勧められ、大学1年生の時に購入して読んだ本で、その後も網野善彦の本は何冊か読んだが、この本が一番思い出深い。勧めてくれた新谷尚紀先生が、昨夏、朝日新聞の「語る 人生の贈りもの」を書かれていたのを読み、この本を再読してみようと思ってから1年以上経ってしまった。歴史資料を読む力がないので、理解の及ばないところも多いのだが、「無縁」の逞しさと研究者の情熱に心を打たれた10代の頃の気持ちを少し思い出すことができた。高校の世界史の先生に紹介されて読んだアイリーン・パウア著、三好洋子訳「中世に生きる人々」(東京大学出版会)も再読してみたが、こちらは半分ほど読んだところで図書館の返却期限が来てしまった。あの頃の自分の年齢になった子供たちを見て、自分を培ってくれた本と再会してみたい気持ちになっているのかもしれない。

2つの写真展(東京都写真美術館)

東京都写真美術館で「リバーシブルな未来 日本・オーストラリアの現代写真」と「写真新世紀2021」を観てきた。在るものを撮った写真で成り立っている作品は少数派で、撮る対象を創作した作品や、写真を素材として創作した作品が多数派だった。これだけ世界中の視覚情報が溢れている状況で、写真を作品として他人に提供する営みと、写真を作品として観る営みが、どういう条件で成立するのか、考えさせられた。

映画2本

「タレンタイム」(ヤスミン・アハマド監督)と「ハチドリ」(キム・ボラ監督)を観た。画面の湿り気、身体と身体の距離感、会話やユーモアのセンスなど、旅をしていても感じた南と北の風土の違いを感じた。複数の言語や宗教が共存するマレーシアと同質性が高い韓国の違いもある。それぞれが素敵な映画だったし、数日の間にこの2本を続けて観たことで、自分の記憶の中でどちらの映画もよりコントラストが鮮やかになったような気もする。

反穀物の人類史

ジェームズ・C・スコット著「反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー」(みすず書房)を読んだ。出張に出かけた街の書店で「みすず書房創業75周年フェア」の棚にあった本の中から、題名と書店員さんのポップに惹かれたこの本を、前書きをちょっと立ち読みしてから購入した。国家というものの振る舞いや、穀物農業の果たした役割、家畜化、人口、無国家民=「野蛮人」の歴史など、いろいろと考えさせられし、イメージが喚起された。10代の終わり頃に読んだ「国家に抗する社会」を再読してみようか、「文明崩壊」のページを捲ってみようか、あるいは久しぶりに「パイレーツ・オブ・カリビアン」を観てみようかなどと思っている。

Walls & Bridges(東京都美術館)

少し前になるが、東京都美術館で「Walls &Bridges 世界に触れる、世界を生きる」を観た。「記憶という言葉から導かれる不思議な親和性」、「生きるよすがとしてのアート」という紹介に惹かれて足を運んだのだが、作品に接して、これは形を変えた「祈り」ではないか、自分を声高に主張するわけではなく、何かに祈るような姿勢が心を打つのではないか、そんな印象を受けた。