先生とわたし

四方田犬彦著「先生とわたし」(新潮文庫)を読んだ。由良君美が書いた「吉里吉里人」の文庫版あとがきを読んでこの本のことを思い出し、数日で読み上げた。自分が駒場に通った時期は由良君美が退官する直前の時期だったのだが、当時は「ニューアカ」が持て囃され、由良君美の存在感は希薄だったように思える。自分も十人並みに浅田彰や中沢新一、あるいは蓮見重彦や見田宗介の本は何冊か読んだが、残念ながら由良君美の文章を読んだはっきりとした記憶がない。さらに残念なことに、自分はこの本にあるような師弟関係が駒場に存在することすら知らなかったように思う。授業に出ず、均せば2、3日に1本のペースで映画館に通い、興味の趣くままに濫読する気儘な2年間に得たものは大きかったと思うが、触れられず、学べなかったものの大きさを改めて省みさせられた。自分は四方田犬彦の良い読者ではないのだが、この本は駒場に通う子供たちに薦めておこうと思う。

吉里吉里人

井上ひさし著「吉里吉里人(上・中・下)」(新潮文庫)を読んだ。長年気になりつつも、500頁を超える文庫が3冊という分量に多少二の足を踏み、5、6年前に購入した上巻だけが本棚に積まれていたのだが、読み始めてみると10日ほどで読み終えてしまった。東北弁含有臨場感横溢的ビートに乗せられて、読むスピードが上がったのだろうか。昨年から井上ひさしの戯曲、エッセイ、小説をいくつか読んだが、その文体や視点の振れ幅の広さに励まされた気がする。そういえば、こまつ座には何が掛かっているのだろうかと思ってウェブページを見てみると、8月に「頭痛肩こり樋口一葉」を演るようで、これは観に行こうかなぁ。

2022年5月は30キロ+35キロ

2022年5月の月間走行距離は30キロ、伊豆山稜線歩道で20キロ、奥多摩で15キロの「スピードハイク」を楽しんだことを言い訳にしても、大幅なペースダウンになってしまった。奥多摩の下り坂で足首を捻挫してしまい(翌日はかなり腫れて痛みも強かった。)、その後全く走れていないことが原因で、改めて怪我や故障を避けることの大切さを思い知らされている。そろそろ5キロ程度は走れそうな状況まで回復してきたので、来月から挽回していきたいと思う。

奥多摩

朝8時前に青梅線古里駅を出発して、大塚山、御嶽神社、日の出山、三室山、愛宕神社と歩き、温泉に入り、吉川英治記念館を見学して、14時半過ぎの電車で二俣尾駅から東京に戻った。好天に恵まれ、気持ちの良い一日だった。前回の伊豆山稜線歩道にはSONYのRX100Ⅲを持参したのだが、今回はFUJIFILMのX-T4にXF16㎜ f1.4を付けて持って行った。「規則性と規則性の破れ」を探して、植林された東斜面と自然林の西斜面を分ける尾根道や、異なる規則性を横切る道路など、いくつか写真を撮ってみたのだが、巧拙は措くとして、自分は規則性の微妙なズレよりも、分かり易い「破れ」に惹かれる傾向があるようだ。次回はXF10-24mm f4を付けて出かけてみようかと思っていたが、下山時に足首を捻挫してしまい、梅雨が明ける頃までお預けになりそうだ。

柴田敏雄と鈴木理策(アーティゾン美術館)

アーティゾン美術館で「写真と絵画-セザンヌより 柴田敏雄と鈴木理策」を観た。柴田敏雄のセクションでは、不揃いな規則性と規則性の破れに目が留まった。厳密に正確ではない繰り返しのパターンと、そのパターンが終わるところ、そのバランスにリズムや美しさを感じたのかもしれない。考えてみると、世の中には不揃いな規則性と規則性の破れが至るところにあって、気を付けて見ればそこにリズムや美しさが見つけられそうな、そんな気がした。鈴木理策のセクションでは、カメラの視覚とヒトの視覚の違いを感じたことで、ヒトの視覚が相対化され、自分の視覚への信頼を問い直す機会になった。最後の雪舟の四季山水図とのセクションでは、雪舟と柴田敏雄のある種の厳格さの相似性が印象的だった。柴田敏雄の写真は、ここ数年のフラットで乾いた印象を受けたプリントよりも、それ以前の滑らかに潤ったプリントにとても魅力を感じた。