渇水

久しぶりに映画館に出掛けて「渇水」(高橋正弥監督)を観た。映画.comで上映中の映画を眺めて、キャストの顔触れや監督の経歴からこの映画にあたりをつけ、図書館で借りた原作(電子書籍!)を読んでから観に行ったのだが、誠実な映画だと思った。映画では舞台が前橋市になっていて、90年代に2年近くを過ごしたあの街に懐かしさを感じたし、姉妹が暮らす木造平屋建ての戦後の文化住宅といった趣の家屋にも、そういえば前橋で家を探しをしたときに、こうした一戸建ての家賃が市の中心部に近いワンルームよりもかなり安いことに驚いたことなどを思い出した。主人公が頻繁に煙草を吸っていたり、「テロ」という言葉を臆せずに口にしたり、「コンプライアンス」への配慮や忖度からはある程度距離を置いている雰囲気を感じるのだが、結末は、原作から変えたかったのか変えざるを得なかったのか、良く分からない。映画のような結末もあるとは思うのだが、原作の永遠に満たされない渇きの手触りは長く記憶に留まるかもしれない。
余談だが、TOHOシネマズ日比谷のロビーは、吹き抜けの天井に届く広大なガラス窓一面に日比谷公園から皇居へと続く豊かな緑と爽やかな夏空の景色が広がっていて、東京でも第一級の風景が庶民の娯楽に惜しげもなく振舞われていることに嬉しさを感じつつも、80年代の名画座の暗闇で映画を観続けた自分には眩しすぎて、この風景とトレードオフで何かを失っているのではないかといった思いが頭を掠めたりもした。

セレンディピティ(東京都写真美術館)

東京都写真美術館で「田沼武能 人間賛歌」と「TOPコレクション セレンディピティ」の2つの写真展を観た。ある意味で対照的な写真展だったようにも思える。田沼武能の写真展は、被写体を撮る=現実を見つめる好奇心、共感、歓びを多くの人と共有しようとする欲動が真直ぐに現れた写真家の仕事を率直に紹介するストレートな魅力に満ちた展示だったと思う。片やTOPコレクションの今回の企画は、写真を撮る≠現実を写すという写真も含めて、様々なアプローチの写真を偶然性の観点から振り返って編集した展示で、図録で紹介されている「ぶらぶらモード」のおもしろさがあった。そもそも写真はその場に居合わせた撮影者の偶然の幸運(セレンディピティ)を表現していたはずだが、無数の撮影者の数多のセレンディピティがネットから溢れ出している現在では、むしろ写真と出会うことや写真を選び出すことにセレンディピティを見出すことになるのかもしれない。パブリシティの面だけでなく、写真の魅力を創造する面でも、写真家(作品の個性)よりも編集者(そして検索エンジンやAI)がパワーを持つ時代が来ているようにも感じた。(世界中の広範な地域から過去10年間に撮られた田沼武能的な写真を集めてきて並べることはAIでもできるだろう。)そうは言いつつも、自分は2つの写真展を回りながら写真家の個性を楽しんでいたと思う。(初めて観た吉野英里香の写真に魅力を感じた。これもセレンディピティか。)会場に来られていた幅広い世代の人たちも多くのセレンディピティを持ち帰られたのではないだろうか。

黄金旅風

飯嶋和一著「黄金旅風」(小学館文庫)を読んだ。この本を読む前に小川哲著「地図と拳」(集英社)を読んだのだが、大陸の乾いた空気の中に鶏冠山だけが変わらずに在り続ける風景に達観というか諦観というか寂寥感を覚えて、飯嶋和一が読みたくなった。NHKの100年インタビューの再放送で大江健三郎が「僕にとって一番大切なことはですね、根本的には人間について考える、人間らしさとはどういうことか、ということをね、どんな悲劇的な状況でもこの人物が人間であり続けるということはどういうことかということをだいたい小説家は書いている」と話していたのを聞いたことも切っ掛けだったかもしれない。読み始めてみて、前半を読み終える頃には、まだこの作品に何処となくぎこちなさのようなものを感じていた。ダブル主演の一人であるはずの才介が前半のうちに亡くなり、片翼飛行のように感じられてしまったこともあるかと思う。しかし、飯嶋和一の語り口に魅了されながら最後まで読み終えてみると、既に読んだ「始祖鳥記」と「出星前夜」の間に挟まれたこの作品の立ち位置、飯嶋和一の仕事の骨太さやスケールの大きさが現れてくるようにも思えて、もう一度「始祖鳥記」や「出星前夜」を読みたくなっている。「黄金旅風」は、自分には、戦争を回避することが如何に大変なことで、時として多大な犠牲を伴うという重たい読後感を残した。「黄金旅風」の長崎は大きな戦争を免れることができたが、それから5年も経たないうちに「出星前夜」に描かれた島原の乱が起き、数万人が命を落とすことになる。やはり近いうちに「出星前夜」を再読してみようか。飯嶋和一は今年は2冊(多くて3冊)までと決めていたはずなのだが。

森の王 森の声 ~遊動の民ラウテ~

録画してあったNHKのBSプレミアム「森の王 森の声 ~遊動の民ラウテ~」を観た。自分以外の同居する家族全員がコロナに感染し、幸か不幸か週末は家の中で心置きなく一人でまとまった時間を使える環境になったので、読書をしつつ、録り溜めてしまっていたテレビ番組の中から「日銀”異次元緩和”の10年」、「日本の教育を変える~インド出身副校長波乱の1年」、「暴力の人類史 ”悪魔”の誘惑と戦う」、「”家畜” それは遺伝子の共進化」といった番組も観たのだが、10年間をかけてネパールの山間部を移動しながら暮らす僅か140人の少数民族ラウテを取材した「森の王 森の声 ~遊動の民ラウテ~」は、労作であり、見応えのある映像だったと思う。90分の番組には、個人や社会の歴史や現在を取り巻く様々な要素が作為なく流れ込んでいて、10年間の地道な取材がなければ残せなかった姿や風景、記憶や気持ちが映り込んでいると思う。千年にわたり定住者のアンチテーゼを生きてきて、今は定住化を強いられつつあるラウテの人たちが、そして富永愛にちょっと似ていて(?)「(将来を)怖れない」と言う21歳のラウテの女性サムジャナさん(思い出や記憶という意味の名前らしい)が、あるいはネパールの定住者の人たちやその人たちの国家が、これからどういうラウテの未来を拓いていくのか、いろいろと考えさせられた。こうした番組をテレビで届けてくださった方々に感謝したい。

交響詩「鏡の眼」

東京オペラシティで交響詩「鏡の眼」(井上道義指揮、東京交響楽団)を聴いた。昨年11月のN響との演奏を聴いてから、遅ればせながら井上道義のファンになり、井上道義が書いた交響詩を聴いてみたいと思い足を運んだ。一度聴いただけで曲を見渡せるような才はないので、この曲について何か言うことはできないのだけれど、分節化された様々な「音」自体の響きの美しさや楽しさが記憶に残っている。今日のコンサートでは、武満徹の「ワルツ」が、オーケストラに黒漆の輝きを放たせるイノウエ・マジックを感じられたようで印象深かった。
余談だが、何か記念にと思い、会場で井上道義と大阪フィルの「レニングラード」のCDを買った。大阪フェスティバルホールの客席に身を置いた自分を想像しながら聴いてみると、聴衆の緊張まで感じられるような気がして、第一楽章では、初代宮内庁長官田島道治が太平洋戦争の開戦を振り返って「勢いは芽生えの時に押さえないと、勢いが勢いを生んで人力ではどうにも参りません。・・・勢いというのは実に恐ろしいものです。」と話した言葉を思い出したりした。第四楽章のフィナーレは、単純なクライマックスやカタルシスではない、様々なものが流れ込み溶け込んだ響きに涙した人も多かったのではないだろうか。その場に居たかったと感じされられる録音だった。
来年2月に井上道義が指揮するN響のショスタコーヴィチも是非聴いてみたいと思っている。