国立西洋美術館の企画展「自然と人のダイアローグ」を観て、駆け足になってしまったが常設展も観て歩くことができた。企画展は19世紀後半を中心とする年代の作品が、それぞれにテーマを設けた4章に分けて構成されていたが、幅広い作風にわたる様々な作品が展示されていて、テーマを横断するような作品も多く、自分の知識や経験の不足もあるとは思うけれど、テーマを意識して展示を観るというよりも、常設展を楽しむような印象だったような気がする。ハイライトの1点だったフリードリヒの作品が心に残っていたのか、常設展では、ハンマースホイの作品に足を止めた。都美術館の特別展は足を運ばないうちにコロナで閉幕となってしまい残念だった。美術館の建物はリニューアルされた印象はあまりなく、以前からの西洋美術館の佇まいがそのまま保たれているようだった。
沖縄の美(日本民藝館)
日本民藝館で復帰50年記念の特別展「沖縄の美」を観た。東京国立博物館で「琉球展」を観てから、「沖縄の歴史と文化」(中公新書)や「沖縄文化論集」(角川文庫)といった書籍などを読んだりする中で、13世紀以降の沖縄の日本と中国あるいはアメリカに挟まれた地政学に関心を寄せる一方で、13世紀以前のおそらく文字が使われていなかった時代の沖縄にも想像力を掻き立てられた。もっとも、そんなに昔まで遡らなくとも、例えば明治20年頃の鹿児島県で自分の名前を書くことができた6歳以上の男性の比率は50%程度、女性は10%程度だったという当時の文部省の自署率調査の結果を見ても、日本の人口の大半を占めていた農村・漁村・山村の暮らしに文字が浸透したのは最近のことで、それ以前の社会では、世代を超えて受け継がれる歌や祭り、道具や雑器、織物などの工芸品が持つ意味合いも少なからず異なっていたように思える。そういう目で展示されていた沖縄の工芸品を見ると、それぞれの作品がより雄弁になるようにも感じられた。先日のテレビ東京のお宝鑑定団で紹介されていた金城次郎の作品も多く展示されていて、全体的に大らかな雰囲気が素敵だった。
頭痛肩こり樋口一葉(こまつ座第143回公演)
紀伊国屋サザンシアターでこまつ座の「頭痛肩こり樋口一葉」(作:井上ひさし、演出:栗山民也)を観た。考え始めるといろいろと考えたいことも多く、戯曲を読んだり、一葉を読んだり、初演時の世相を振り返ったり、時間をかけてこの芝居に向き合っていきたいと思っているのだが、そういったことは取り敢えず置いておくとしても、この芝居で大いに笑ったし、泣けたし、励まされた。貫地谷しほりと瀬戸さおりの凛とした姉妹の佇まいも、増子倭文江と香寿たつきの人生の年輪を感じさせる掛け合いも、熊谷真実が垣間見せる人間の性と凄みも、いずれもそれぞれに魅力的で深く印象付けられた。おそらく10年ぶりくらいで芝居に足を運んだ妻は甚く感動して、娘を連れてもう一度観に行くと言っている。自分も、今回の公演に再度出かけることはなさそうだが、再演されるときにはまたこの芝居で描かれた6人の女性たちに会いに出かけたい、その時には、叶うことならば、もう一度若村麻由美が演じる花蛍を観る悦びを味わってみたいと思っている。家族の記憶に残る芝居を届けてくださったスタッフ、キャスト、関係者の皆さまに心から感謝したい。
高関健 サントリー音楽賞受賞記念コンサート
サントリーホールで「第50回サントリー音楽賞受賞記念コンサート 高関健」(指揮:高関健、演奏:東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団)を聴いた。10年程前に高関健と群馬交響楽団のマーラー交響曲第9番のCDを聴いてライナーノーツを読んでから、高関健の仕事に関心と敬意を持ってきたので、お祝いのコンサートに出かけたいと思った。
1曲目に演奏されたノーノの「進むべき道はない、だが進まねばならない…アンドレイ・タルコフスキー」は、もしかすると1987年11月の初演を聴いたかもしれない。当時は、タルコフスキーの「ノスタルジア」を名画座で何度も繰り返し見ていた頃で、三百人劇場の全作品回顧上映に通ったり、この年に公開された「サクリファイス」も何度か封切館に観に行ったりと、タルコフスキーに傾倒していた時期で、この作品のことも耳にしていただろうと思う。もっとも、録音も含めてこの曲を聴いた記憶はなく、やはり今回のコンサートで初めて体験した作品と言った方が良いだろう。おそらく多くの聴衆や楽員の方々にとってもほぼ初めて接する作品だったのではなかろうか。ステージ上のオーケストラと、2階の中央あたりの高さでステージを囲むように配置された6つの管弦打楽器の小ユニットが、空間的に隔たった状態で緻密なアンサンブルを組むことを求められる演奏は、指揮者や演奏者だけでなく聴衆にも遠く離れた場所で無音の沈黙から生まれる音に耳を欹てる緊張を求めるもので、先の見えない不安定な状況の中に無防備な体で投げ出された大昔からの人間の在り方を感じさせられるような気がして、そんな人間の在り方が今の世の中でも本質的には変わっていないこと、特に今日も戦火に晒されている遠く離れた場所のまわりで耳を欹てながら生きる人たちの緊張感が、この世界のアンサンブルを何とか保っているのかもしれないこと、ソ連から亡命した異国の地で故郷を想いながら客死した芸術家に捧げられたこの作品を聴きながら、そんなことを考えさせられた。
2曲目に演奏されたマーラーの交響曲第7番は、1曲目とは打って変わって奇怪さを備えた祝祭的・カーニバル的な趣もある作品で、楽曲への深い理解とオーケストラとの強い信頼関係に裏付けられた高関健の揺るぎのない自信のようなものが感じられる素晴らしい熱演だったと思う。昨年末の第九、今年3月のマーラー交響曲第9番に続いて高関健と東京シティ・フィルの充実した演奏に心から励まされた。
2022年7月は40キロ+Bike+Hike
2022年7月の月間走行距離は40キロだった。白砂山の登山で再び右足首を捻って痛めてしまったことや、酷暑のせいで走れておらず、ランニングのペースも上がっていないのだが、今月は登山に加えて、毛呂山の8キロ250mアップの周回コースをバイクで6周したので、全部を合わせれば100キロ走った程度の運動量にはなったのではないかと思う。足首はまだ本調子ではないし、毎日暑いので、8月もバイクで体を動かすことになりそうだ。久しぶりにプールにも行ってみようかな。