飯嶋和一著「南海王国記」(小学館)を読んだ。2021年11月に「出星前夜」を読み始めてから昨年8月に「星夜航行」を読み終えるまで、文庫本になっている作品をひとつずつ楽しみに読んでいったのだが、今回は初めて発売と同時に作品を読めるということで、7月30日の発売初日に書店で平積みにされていた「南海王国記」を購入し、一週間ほどで読み終えた。読み終えたのだけれど、読後感は、今までの作品とはちょっと異なる。平たく言うと、過去の飯嶋和一の作品には、そこまで有名な人ではなく、その含蓄ある生き様で「人間も悪くないよな」と思わせてくれるヒーローがいたのだが、この「南海王国記」では、鄭成功を始め歴史書に登場するような人たちが無数に出てくるのだけれども、ヒーローの存在感が希薄なのだ。様々な制約の中で我欲の追求と戦いに明け暮れる人間たちを淡々と描く500頁を読み終えた後に残るのは、救いのない疲労感のようなものかもしれない。200頁くらいまで読んだ時点で、このトーンはこれから展開する物語の舞台を整えるための前振りなどではなく、この本はこういう作品なんだという認識への切り替えを迫られたのだけれど、読み終えてもやはりそういった印象が残る。あれだけ魅力的なヒーローを描いてきた飯嶋和一が、「ヒーローなんていないんだよ」と500頁の重さで語りかけてくることに、ヒーローを期待していた少年は戸惑いを感じている。それはそうかもしれない。人間は愚かで、誰もがじたばた必死で生きていくしかないのだろうとは思う。でも、と数年後に還暦を迎える少年は思うのである。これで終わりにしてもらいたくないなぁ。自分は飯嶋和一が描くヒーローが好きだし(男性も女性も馬もヒーローだった)、身近にある様々な物に注がれる細やかな眼差しが好きだ。あの描写の醍醐味を味わいたいと思っている。「南海王国記」は、再読するか分からないけれど、この本のことは折に触れて思い出して、現在の状況も重ね合わせながら、いろいろと考えることになるだろうと思う。(この本の中で17世紀の多くの人たちが願っていたように、自分も台湾海峡や東アジアで戦争が起きないことを願っている。)でも、これが飯嶋和一の最後の作品になるのは寂しい。小説丸で連載中の「北斗の星紋」は、読んでいないのだけれど、また違った魅力を持つ作品になっているといいなぁと思っている。
響きの森クラシック・シリーズVol.84
文京シビックホールで横山奏が指揮する東フィルの「響きの森クラシック・シリーズVol.84」を聴いた。1曲目はソリストに中野りなを迎えたチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲で、中野りなの伸びやかで豊かな音色のヴァイオリンが素晴らしかった。オーケストラも、21歳のソリストを温かく見守りながら丁寧に応答してソリストの魅力を十二分に引き出しつつ、曲全体の魅力をバランスよく描き出す素敵な演奏だったと思う。この顔合わせの演奏をまた聴いてみたいなぁ、今度は何が良いだろう、シベリウスか、あるいはモーツアルトか、などと考えてしまった。アンコールのバッハのパルティータを挟んで、2曲目はチャイコフスキーの交響曲第5番。こちらも何度も聴いている曲なのだけれど、やはり横山湊と東フィルの演奏の個性は感じられて、何と言うか、自然の中で手間暇かけて育てて天日干しにしたお米をかまどで炊いたごはんのような、派手さはないかもしれないけれど、丁寧で心に沁みる美味しい音楽、といったところだろうか。たくさんの指揮者がいる中で、演奏家や聴衆に向けて個性を出していくことはやはり難しいことなのだろうけれど、自分はこの演奏は好きで、横山湊が指揮する他のオーケストラの演奏も是非聴いてみたいと思っている。アンコールに演奏されたチャイコフスキーの弦楽セレナーデのワルツには、また一味違った「踊る横山湊」の魅力の片鱗が感じられて、井上道義ファンとしては、この路線の音楽も聴いてみたいなぁ、と思ったりもしている。
2025年7月は29.9キロ+Walk
2025年7月の月間走行距離は29.9キロだった。5キロを6回。8月も暑いけれど、まずはゆるゆる身体を慣らす心づもりで、5キロをできれば12回、60キロ走れたらと思っている。
啓蒙の海賊たち
デヴィド・グレーバー著、酒井隆史訳「啓蒙の海賊たち」(岩波書店)を読んだ。積読になっているグレーバーの「負債論」を読むつもりでいるのだけれど、出張先の街の書店を何か購入しようと歩き回って、結局、この本と隣に積まれていた中村達の「君たちの記念碑はどこにある?-カリブ海の〈記憶の詩学〉」を購入してしまい、この本から読むことになった。(ちなみに、「君たちの記念碑はどこにある?」は次女が先に読み始めたようだ。)おおまかな要約が訳者によるあとがき(168₋170頁)に書かれているのだけれど、その直後に翻訳者が書いているように「と、このように圧縮してはみたものの、本書をお読みになればわかるように、筋書きはけっして一筆書きですむようなものではない。まるでこの『大きな島』の歴史そのもののように、多種多様なエスニシティと信仰、コスモロジー、慣習が入り乱れ合い、いたるところで『分裂生成』を惹き起こしている」といった具合である。翻訳者のあとがきには「執筆しながらも、そこから生まれたあたらしいアイデアを展開したくて、目の焦点ははやくも前方にむいたままあわただしく世にだしたという印象が、独特の混沌に彩られた本書にもった印象である」とも書かれている。何層にも積み重なる多様な移民の歴史、そこに現れた海賊バッカニアと欧米・奴隷貿易の複雑な激流が入り混じる17世紀末から18世紀初頭のマダカスカル北東部をラフティングするように勢いにまかせて読んでしまい、どこまで頭にはいったか心許ないのだけれど、この本の前に読んだ熊野純彦の「差異と隔たり」とはまったく異なる読書になって、それもまた面白かった。この本のあとは、地域や時代は異なれどこの本と同様に海賊の子供を描いた飯嶋和一の「南海王国記」が来週発売されることを心待ちにしている。
9つのプロフィール 1935→2025
東京都現代美術館で開館30周年記念MOTコレクション「9つのプロフィール 1935→2025」を観た。1935年から2025年までの90年間を10年ごとの9つの期間に区切って、多くの作家の300点近い作品を展示する企画で、ひとりの作家の作品をクロノロジカルに観る展示以上に、時代の移り変わりや時代との関わり、あるいは前の世代を乗り越えようとする動きを意識しながら作品と向き合う時間になった。特に足を止めた時間が長かった作品は、阿部合成「顔」(1937年の日本人が何を思っていたかを強烈に意識させられる)、向井潤吉「影(蘇州上空)」(昨年訪れた蘇州の街を思い出しながら)、田中佐一郎「赤田張野営」(戦場に連れて来られた馬と兵士の間に何ほどの違いがあるだろう)、香月泰男「昼」(香月泰男の人生を思いながら)、鶴岡政男「重い手」(掌は上を向いていて)、李禹煥「線より」(もの派が生まれた時代の流れを思いながら)、草間彌生「自殺した私」(草間彌生に出会えたような気がして)、杉本博司「Polar Bear」(重さと軽さと美しさ)、辰野登恵子「Untitled」(過去に何点か観た90年代以降の大きな油彩はどれも素敵だなぁと思った)といったところだろうか。1935年から2025年の90年間は、今年90歳を迎える自分の父親の人生と重なり合う。広島県府中市に生まれ、両親を亡くしてから東京に出てきて夜学に通い、母と結婚し、3人の子供を育てた父は、美術とはほとんど縁がなかったと思うけれど、展示されていた作品が互いに響き合うように、自分の中では、父の人生に関する記憶も作品と響き合うように感じられたことが嬉しかった。