世田谷美術館で「祈り・藤原新也」を観た。藤原新也に四半世紀遅れてカメラと共にアジアを1年間旅したことがあるのだが、当時もその後も藤原新也とはあまり接点がなかった。我が家にも「印度放浪」や「メメント・モリ」はあって、子供たちは手に取っているようだが。NHK日曜美術館の「死を想え、生を想え。写真家・藤原新也の旅」を観たからか、あるいは生者と死者が行き交う「わが町」の芝居を観て戯曲を読んだからか、世田谷美術館に足を運んでみたのだが、意外にも藤原新也の絵画に心を惹かれた。藤原新也の写真には、異質なものと格闘して掴み取ろうとするようなある種の気迫や緊張を感じるのだが、絵画には自分の身体が発する微かな声を自由に描いた優しさがあるように思えた。写真の中では、東アジアの田舎の風景や引退直後の三浦百恵の写真に同じ通路から吹き上げてくる空気が感じられるような気がする。生と死が鬩ぎ合い交じり合う様を写真に焼き付けた藤原新也の中で、人知れず鬩ぎ合い交じり合ってきた異質なものの存在に触れたようで興味深かった。
わが町(東京演劇道場)
東京芸術劇場シアターイーストで「わが町」(作:ソーントン・ワイルダー、演出・翻訳:柴幸男)を観た。上演機会が多い有名な作品らしいので戯曲を読んでから行こうかと思いつつも、チケットを購入したのが直前だったので間に合わず、ネットで見つけた英文の第一幕を斜めに読んだだけで観ることになったのだが、斬新な演出であることはすぐに分かった。生者は役者が人形を受け渡しつつ入れ替わりながら演じ、死者も役者が入れ替わりながら演じられる。第二幕のジョージとエミリーの場面は人形が登場する映像に役者がアテレコを入れ、第三幕の後半のエミリーの台詞は複数の役者がタイミングを微妙にずらしながら発声するため言葉があまり良く聞き取れない。キャラクターが特定の役者の身体と結びつかず、戯曲の言葉が劇場に浮遊しているような印象を受けた。改めて戯曲(鳴海四郎訳)を読んでみると、台詞はほぼ同様でも、随分と違った芝居が感じられる。1938年2月4日のヘンリー・ミラー劇場での「わが町」の初演は、当時としては革新的な芝居だったらしい。その歴史を受け継ぐ斬新で独創的な「わが町」を観られたことを嬉しく思う一方で、鳴海四郎の訳者あとがきや水谷八也の訳注を読みながら、今回の芝居とはまた違った「わが町」を観てみたいとも思っている。100年前よりも生者と死者のコントラストがかなり薄められ、また「わが町」と呼べる空間も失われつつある時代と向き合おうとすると、もはや「わが町」の芝居にはならないのかもしれないけれど、そんな芝居も観てみたいと思う。
神なき月十番目の夜
飯嶋和一著「神なき月十番目の夜」(小学館文庫)を読んだ。年が明けて飯嶋和一が解禁になったので、未読の小説のうち最も古いこの小説を手に取った。江戸時代の初頭に茨城県北部の小村で起きた百姓一揆が一村皆殺により鎮圧された事件を描いたこの小説には、人間の弱さが連鎖して悲劇を拡大していく点で、先日観た「ファーゴ」に通じるものを感じるし、また、権力が対立する者を殺めて排除していく様子には、これも先日総集編を観た「鎌倉殿の13人」に通じるものも感じる。権力も常に異分子を排除するわけではない。対話が成立せず排除に切り替わろうとするとき、逃げられるならば逃げるかもしれないが、逃げ(られ)ない場合にはどうするのか、「鎌倉殿の13人」のように様々な生き方があるのだろうし、「神なき月十番目の夜」の石橋藤九郎の生き方にも教わるところが大きい。飯嶋和一の未読の小説は「黄金旋風」、「狗賓童子の島」、「星夜航行」の3作品。新作を心待ちにしつつ、今年はあと1作品、多くても2作品を読むだけにしておこうと思っている。
フランシス・マクドーマンド
Olive Kitteridgeを観た流れで、フランシス・マクドーマンドがアカデミー主演女優賞を受賞した3本の映画を観た。「ファーゴ」を観るのは4回目くらいだけれど(誇張された登場人物が悲劇の連鎖を生み出す有様は、ある意味人間社会の悲劇の縮図を見るようで、この作品は悪ふざけに満ちた古典的な傑作ではないかと思う。)、「スリー・ビルボード」と「ノマドランド」を観るのは初めてで、続けて観てみると、確かにマクド―マンドがそれぞれの映画で演じるキャラクターに魅力と説得力を感じるのだけれど、それがミシシッピー・バーニングやコーエン兄弟の他の作品などを通じて築かれたマクド―マンド個人の俳優としてのキャラクターとも分かちがたく結びついて、より一層ファンの心を動かし支持を集めているような気がする。ドキュメンタリータッチの「ノマドランド」はそうした魅力に溢れた映画で、作り手が寄り添いつつ美しく描いたハウスレスな人たちの姿に、バックパッカー旅行中に出会った年長者のことを思い出したりもした。この映画は気になりつつもコロナ禍で劇場に足を運べずにいたのだけれど、次は、どこかの名画座の暗闇の中に身を沈めて、まばらな観客と一緒に観てみたいと思っている。
Olive Kitteridge(TVドラマ)
先日読んだ「オリーブ・キタリッジの生活」を原作とするTVドラマがあると知って、2014年に米国HBOで放送されたTVドラマ全4話(各話約1時間)を観た。最初は原作とはやや異なるフランシス・マクドーマンドが演じるオリーブの印象や独特の渋いユーモアに多少の落ち着かなさを覚えたものの、メイン州の自然や街並みの透明感のある美しさは格別で、続けて観ていくと、原作の様々な短編のエピソードが各話に重なりつつ散りばめられた構成や、老いていくことで重さを増していく人々の孤独の手触りに奥深さを感じた。登場人物のキャラクターや自然の描写を通じてクロズビーの街の空気を描いていくような原作の広がりのある魅力と比べると、TVドラマには、よりキャラクターに焦点を当てた凝縮感のある味わいがあるように思える。名優が出演しているとはいえ、楽しい出来事はあまりなく、辛い出来事を経験しながら老いていく普通の(やや変わった)人たちを苦めのユーモアを交えながら描いた(ある意味では地味な、高畑淳子と小林薫が老夫婦の日常を演じているような)この作品がエミー賞の作品賞を含む主要6部門を受賞したというのは、多少意外でもあるのだが、大いに納得もさせられた。