頭痛肩こり樋口一葉(こまつ座第143回公演)

紀伊国屋サザンシアターでこまつ座の「頭痛肩こり樋口一葉」(作:井上ひさし、演出:栗山民也)を観た。考え始めるといろいろと考えたいことも多く、戯曲を読んだり、一葉を読んだり、初演時の世相を振り返ったり、時間をかけてこの芝居に向き合っていきたいと思っているのだが、そういったことは取り敢えず置いておくとしても、この芝居で大いに笑ったし、泣けたし、励まされた。貫地谷しほりと瀬戸さおりの凛とした姉妹の佇まいも、増子倭文江と香寿たつきの人生の年輪を感じさせる掛け合いも、熊谷真実が垣間見せる人間の性と凄みも、いずれもそれぞれに魅力的で深く印象付けられた。おそらく10年ぶりくらいで芝居に足を運んだ妻は甚く感動して、娘を連れてもう一度観に行くと言っている。自分も、今回の公演に再度出かけることはなさそうだが、再演されるときにはまたこの芝居で描かれた6人の女性たちに会いに出かけたい、その時には、叶うことならば、もう一度若村麻由美が演じる花蛍を観る悦びを味わってみたいと思っている。家族の記憶に残る芝居を届けてくださったスタッフ、キャスト、関係者の皆さまに心から感謝したい。

高関健 サントリー音楽賞受賞記念コンサート

サントリーホールで「第50回サントリー音楽賞受賞記念コンサート 高関健」(指揮:高関健、演奏:東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団)を聴いた。10年程前に高関健と群馬交響楽団のマーラー交響曲第9番のCDを聴いてライナーノーツを読んでから、高関健の仕事に関心と敬意を持ってきたので、お祝いのコンサートに出かけたいと思った。
1曲目に演奏されたノーノの「進むべき道はない、だが進まねばならない…アンドレイ・タルコフスキー」は、もしかすると1987年11月の初演を聴いたかもしれない。当時は、タルコフスキーの「ノスタルジア」を名画座で何度も繰り返し見ていた頃で、三百人劇場の全作品回顧上映に通ったり、この年に公開された「サクリファイス」も何度か封切館に観に行ったりと、タルコフスキーに傾倒していた時期で、この作品のことも耳にしていただろうと思う。もっとも、録音も含めてこの曲を聴いた記憶はなく、やはり今回のコンサートで初めて体験した作品と言った方が良いだろう。おそらく多くの聴衆や楽員の方々にとってもほぼ初めて接する作品だったのではなかろうか。ステージ上のオーケストラと、2階の中央あたりの高さでステージを囲むように配置された6つの管弦打楽器の小ユニットが、空間的に隔たった状態で緻密なアンサンブルを組むことを求められる演奏は、指揮者や演奏者だけでなく聴衆にも遠く離れた場所で無音の沈黙から生まれる音に耳を欹てる緊張を求めるもので、先の見えない不安定な状況の中に無防備な体で投げ出された大昔からの人間の在り方を感じさせられるような気がして、そんな人間の在り方が今の世の中でも本質的には変わっていないこと、特に今日も戦火に晒されている遠く離れた場所のまわりで耳を欹てながら生きる人たちの緊張感が、この世界のアンサンブルを何とか保っているのかもしれないこと、ソ連から亡命した異国の地で故郷を想いながら客死した芸術家に捧げられたこの作品を聴きながら、そんなことを考えさせられた。
2曲目に演奏されたマーラーの交響曲第7番は、1曲目とは打って変わって奇怪さを備えた祝祭的・カーニバル的な趣もある作品で、楽曲への深い理解とオーケストラとの強い信頼関係に裏付けられた高関健の揺るぎのない自信のようなものが感じられる素晴らしい熱演だったと思う。昨年末の第九、今年3月のマーラー交響曲第9番に続いて高関健と東京シティ・フィルの充実した演奏に心から励まされた。

2022年7月は40キロ+Bike+Hike

2022年7月の月間走行距離は40キロだった。白砂山の登山で再び右足首を捻って痛めてしまったことや、酷暑のせいで走れておらず、ランニングのペースも上がっていないのだが、今月は登山に加えて、毛呂山の8キロ250mアップの周回コースをバイクで6周したので、全部を合わせれば100キロ走った程度の運動量にはなったのではないかと思う。足首はまだ本調子ではないし、毎日暑いので、8月もバイクで体を動かすことになりそうだ。久しぶりにプールにも行ってみようかな。

バラード第4番

幻想ポロネーズの聴き比べをするうちに、10年近く前に聴き比べたバラード第4番をまた聴き比べてみたくなり、フランソワ(1954)、グルダ(1954)、ルービンシュタイン(1959)、アシュケナージ(1984、1999)、ツィメルマン(1987)、ダン・タイ・ソン(1993)、ペライア(1994)、ポリーニ(1999)、アンドレジェフスキ(2003)、フレイレ(2013)の録音を聴き比べてみた。幻想ポロネーズの聴き比べをした後でバラード第4番を聴き比べてみると、アシュケナージやツィメルマンあたりが本流の演奏なのだろうな、と思うのだが、自分はやはりポリーニの演奏に惹かれてしまう。その理由の一端は、ポリーニの録音でこの曲を初めてきちんと聴いて好きになり、その後も繰り返し聴いてきた刷り込み効果にあるとは思うのだが、他の演奏とは異なるポリーニの演奏の個性に魅力を感じている面も大きいように思える。今回聴き比べた最初の印象は、他の演奏にはある意味私小説的な世界を感じるけれど、ポリーニの演奏にはその世界には収まらない手触りを感じるといったもので、もう少し聴き比べてみると、おそらくその理由はポリーニが声部(特に左手)の独立性を高めたポリフォニックな演奏をしているからではないかと思えた。リードギターがメロディーを奏でているのに、ベースはそっぽを向いてマイペースな演奏を始め、それを聴いたサイドギターも好き勝手な演奏で加わってきて歌まで口遊んでいるけれど、何故かバランスは取れていて、そのうちにそれぞれの演奏が複雑に絡み合いながらカタストロフに向かっていく、そんな不確実性の裂け目から異界に触れるようなスリリングな刺激がこの曲のポリーニの演奏にはある、と言ったら的外れだろうか。ショパンらしくない演奏なのかもしれないが、バッハらしくないグールドの演奏に魅力があるように、この曲のポリーニの演奏にはどうしても惹かれてしまう。

幻想ポロネーズ

妻のピアノの腕前は、フルマラソンで言えばサブフォーくらいだろうか。音大を目指すように本格的に取り組んだ時期があるわけではないけれど、ピアノが好きで結婚したときからずっと弾き続けている。その時々で興味を持った曲を弾いたり、子供たちのレッスンに付き添って同じ曲を弾いたりしていたが、5年ほど前から先生に就いて習うようになって、格段にピアノの音が良くなったと思う。その妻が、ショパンの曲の中で一番好きだという幻想ポロネーズの練習を始めた。自分は、この曲が多くの人たちに愛されていることは知りつつ、あまり親しめていなかったので、これを機に家にあるCDの録音を集中的に聴いてみた。人気がある曲だからだろう、特に集めたわけではないのに、ホロヴィッツ(1951、1966)、ルービンシュタイン(1964)、アルゲリッチ(1967)、フランソワ(1968)、ポリーニ(1975、2015)、ダン・タイ・ソン(1996)、ラローチャ(1997)、アシュケナージ(1999)、ブーニン(2005)、ピレシュ(2008)と12種類の録音があった。随分前になるが、バラード4番を同じように聴き比べたときよりも録音の種類が多かったかもしれない。こうして聴き比べてみると様々な演奏があり、繰り返し聴くことで、捕えどころなく感じていたこの曲が身近になり、好きになることができた。自分は、この曲のPersonalでIntimateな魅力が感じられるフランソワの演奏が好きだ。ピレシュの演奏も好きで何度も聴いた。YouTubeで聴いたショパンコンクールでのKate Liuの演奏も素敵だと思った。