私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ(東京都現代美術館)

東京都現代美術館でMOTアニュアル「私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ」を観た。MOTアニュアルという視覚芸術を基礎にした場所で言葉をテーマに据えることの難しさだろうか、今年のMOTアニュアルは昨年と比較すると身体にストレートに伝わってくる(言葉であっても言葉を介さずに伝わってくる)波動が弱いようにも思えた。「私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ」という名前と展示の斬り結びも、自分にはシャープには感じられなかった。同時に開催されているMOTコレクション「コレクションを巻き戻す 2nd」は、時代を感じさせる作品が多く楽しめたし、石内都の大きなプリントをゆっくりと観ることができて嬉しかった。もっとも、多くの人に強い印象を与えるであろう遠藤利克の作品「泉」は、自分には炭化した死骸のように見えて痛々し過ぎた。

サラダ音楽祭

東京芸術劇場で「サラダ音楽祭」のメインコンサートを楽しんてきた。10日ほど前だったか、家族で食事をしていた時に「9月はイベントが少ないね」という話しになり、「幕の内弁当みたいに楽しいかもしれない」などと言いながらその場でチケットを購入したのだが、むしろ、「料理の鉄人」で何皿かを味わうような充実したコンサートだった。パック(ン?)とオーケストラ・歌手・合唱がコラボした「夏の夜の夢」も意欲的なチャレンジだったと思うが(ホールの残響で台詞が良く聞こえなかったのは残念だった。)、大野和志/都響とNoismが共演したペルトやラフマニノフは、前者は上質な緊張感が、後者は上質な抒情が漂う素敵な舞台だったと思う。Noismの公演は、NHKのプレミアムシアターの映像などで何度か楽しんできたけれども、ホールで観るのは初めてで、やはり人の肉体を使った表現のパワーは、舞踊について何も知らない門外漢にも感じられた。(備忘のため、ペルトでは全てのダンサーが素晴らしいと思ったが、右から三番目のダンサーの踊りが特に美しいと思った。)昨日「オリガ・モリソヴナの反語法」を読み終えがばかりだった影響もあるかもしれないけれど、初めて出会う「舞踊」に惹かれて、Noismの公演を観るために新潟を訪れてみたいと思った。

オリガ・モリソヴナの反語法

米原万里著「オリガ・モリソヴナの反語法」(集英社文庫)を読んだ。大学で第二外国語にロシア語を選択した三女が読み終えた文庫本が食卓にあったので、手に取って読み始め、そのまま楽しくスラスラと読み進めて、台風で家に閉じ込められた連休中に読了することになった。ソビエトの政治体制を背景に1930年代から1990年代までを行き来しつつ、40代を迎えた主人公が10代前半にプラハのソビエト大使館附属学校で接した恩師の人生に関する謎解きを進める筋書きを柱にしたミステリーで、重い主題をそうは感じさせずに読ませる小説だと思う。書きたいという欲望と書く技量がバランスするというのは、なかなかに幸運なことなのだろうな、という読後感があった。

鶯谷・子規庵

カメラをぶら下げて鶯谷周辺を散歩した道すがら、空襲で焼失した正岡子規の旧宅を昭和25年に復元した子規庵を訪ねてきた。病床六尺などは折に触れて読んできたものの、特に正岡子規のファンというわけではなく、それほどの期待はせずに出掛けたのだが、気持ちの良い場所だった。子規が亡くなるまで過ごした六畳間に腰を下ろして庭先を眺めていたところ、子規庵の運営に携わる方から話しかけられたので、ボランティアの方々による運営の手作り感や建物や庭への愛情が感じられて、行政が運営する漱石山房や観潮楼とは一味違ったあたたかい魅力が感じられるといった話しをして、お礼を申し上げた。季節を変えてまた訪れてみたいと思う。

糸瓜忌の子規庵

雷電本紀

飯嶋和一著「雷電本紀」(小学館文庫)を読んだ。「出星前夜」と「始祖鳥記」を読んでから遡って「雷電本紀」を読むと、作者が作品を重ねるにつれて充実していった様子が感じられるようで、ますます作者に頭が下がる思いがした。かといって「雷電本紀」が魅力に薄いかというと、そんなことは一切なく、特に東京で暮らしてきた自分にとっては馴染のある地名が多いこともあり、この本を思い返しながら雷電為右衛門や鍵屋助五郎の足跡を辿ってみたいと思った。飯嶋和一の著作はすべて購入してあるので、次は何を読もうか、こればかり読んでしまわないよう今年はあと一冊にしようと思っているが、どういう順番で読もうか考えることも楽しみだ。

伝通院(鍵屋助五郎の菩提寺)
大門通り・旧高砂町(鍵屋助五郎が暮らした場所)