録画してあったNHKのBSプレミアム「森の王 森の声 ~遊動の民ラウテ~」を観た。自分以外の同居する家族全員がコロナに感染し、幸か不幸か週末は家の中で心置きなく一人でまとまった時間を使える環境になったので、読書をしつつ、撮り溜めてしまっていたテレビ番組の中から「日銀”異次元緩和”の10年」、「日本の教育を変える~インド出身副校長波乱の1年」、「暴力の人類史 ”悪魔”の誘惑と戦う」、「”家畜” それは遺伝子の共進化」といった番組も観たのだが、10年間をかけてネパールの山間部を移動しながら暮らす僅か140人の少数民族ラウテを取材した「森の王 森の声 ~遊動の民ラウテ~」は、労作であり、見応えのある映像だったと思う。90分の番組には、個人や社会の歴史や現在を取り巻く様々な要素が作為なく流れ込んでいて、10年間の地道な取材がなければ残せなかった姿や風景、記憶や気持ちが映り込んでいると思う。千年にわたり定住者のアンチテーゼを生きてきて、今は定住化を強いられつつあるラウテの人たちが、そして富永愛にちょっと似ていて(?)「(将来を)怖れない」と言う21歳のラウテの女性サムジャナさん(思い出や記憶という意味の名前らしい)が、あるいはネパールの定住者の人たちやその人たちの国家が、これからどういうラウテの未来を拓いていくのか、いろいろと考えさせられた。こうした番組をテレビで届けてくださった方々に感謝したい。
交響詩「鏡の眼」
東京オペラシティで交響詩「鏡の眼」(井上道義指揮、東京交響楽団)を聴いた。昨年11月のN響との演奏を聴いてから、遅ればせながら井上道義のファンになり、井上道義が書いた交響詩を聴いてみたいと思い足を運んだ。一度聴いただけで曲を見渡せるような才はないので、この曲について何か言うことはできないのだけれど、分節化された様々な「音」自体の響きの美しさや楽しさが記憶に残っている。今日のコンサートでは、武満徹の「ワルツ」が、オーケストラに黒漆の輝きを放たせるイノウエ・マジックを感じられたようで印象深かった。
余談だが、何か記念にと思い、会場で井上道義と大阪フィルの「レニングラード」のCDを買った。大阪フェスティバルホールの客席に身を置いた自分を想像しながら聴いてみると、聴衆の緊張まで感じられるような気がして、第一楽章では、初代宮内庁長官田島道治が太平洋戦争の開戦を振り返って「勢いは芽生えの時に押さえないと、勢いが勢いを生んで人力ではどうにも参りません。・・・勢いというのは実に恐ろしいものです。」と話した言葉を思い出したりした。第四楽章のフィナーレは、単純なクライマックスやカタルシスではない、様々なものが流れ込み溶け込んだ響きに涙した人も多かったのではないだろうか。その場に居たかったと感じされられる録音だった。
来年2月に井上道義が指揮するN響のショスタコーヴィチも是非聴いてみたいと思っている。
2023年5月は40キロ
2023年5月の月間走行距離は40キロだった。2回目の週末にキロ6分程度で走り始めたところ、5キロ過ぎから左のハムストリングに違和感が生じ、7キロ地点で痛みが激しくなってしまった。その日はそのまま歩いて帰宅し、2週間ほど休んでから3キロ、5キロとゆっくり走ってみたのだが、左のハムストリングスが固くなり違和感が生じてしまう。原因に心当たりがないのだが、もしかすると在宅ワークで使っている椅子のカバー状の座面を月初めに付け替えた際に(きれいな緑色になった)、張りが少し弱くなり、座ったときに枠が腿裏に当たっているからかもしれないと思い、久しぶりにバランスチェアを引っ張り出してきた。快復すると良いのだが、来月のハーフマラソンはDNSになるかもしれない。
四万温泉・渋峠・小布施
来京した義父母と共に夫婦で四万温泉の積善館に泊ってきた。四万温泉は久しく気になりつつも初めての訪問で、「千と千尋の神隠し」の油屋のモデルのひとつと言われている歴史ある温泉宿の雰囲気を楽しむことができた。

翌日は草津温泉の西の河原露天風呂に立ち寄ってから、渋峠を経て小布施に向かった。葛飾北斎の肉筆画がお目当てで、岩松院の天井画「八方睨み鳳凰図」や北斎館の祭屋台天井絵「男浪図」「女浪図」「龍図」「鳳凰図」「富士越龍」などをゆっくりと観ることができた。もうひとつのお目当ては「せきざわ」の蕎麦で、30年前に感動した味を懐かしく思い出すことができた。

街とその不確かな壁
村上春樹著「街とその不確かな壁」(新潮社)を読んだ。自分は村上春樹の良い読者なのか、分からない。初めて読んだ作品は「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」で、高校二年生の夏だった。それまではいわゆる名作を文庫本で読むか図書館で借りるかしていた自分が、初めて小遣いで購入した単行本だったと記憶している。確か朝日新聞の文芸時評でこの本を知ったはずだと思い、図書館に行って探してみたところ、1985年7月25日の夕刊に山崎正和の書評が掲載されていた。この書評を読み返してみても、どうして当時の自分がこの本に関心を抱いたのか分からないのだが、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」は多感な時期の自分にとってのナンバーワンの小説となり、大学受験を挟んで村上春樹の著作をあらかた読み尽くし、心待ちにしていた新刊(「ノルウェーの森」)を真っ先に大学生協で購入して読んだ。その後も村上春樹の小説、翻訳、エッセーを読む機会は多かったのだが、仕事に就いてからは読書量そのものが減り、いつの頃からか村上春樹の新刊も読まなくなっていた。「1Q84」は英語でしか読んでおらず、「騎士団長殺し」は読んでいない。しかし、「街とその不確かな壁」は、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」や「海辺のカフカ」がそうだったように、自分にとって特別な小説になるような気がして、発売後まもなく書店で初版本を購入した。読み進めながら、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を初めて読んだ頃の自分を感じられるような気がして少し懐かしい気持ちになりつつ、読み終えてみて、私の勇気ある落下に説得力を感じている自分にあの頃からの年月の経過を感じてもいる。