2023年11月の月間走行距離は20キロだった。言い訳ができない感じで、12月に気合を入れるしかない、そのためにはやはりレースの予定を入れようかなぁ。
雑司ヶ谷、東池袋、護国寺
寒い日だったが、午前中からお昼過ぎにかけて護国寺、雑司ヶ谷、東池袋を散歩した。長いこと歩いたり走ったりしてきたエリアで、新鮮味はないかもしれないが、愛着はある。VoiglanderのNokton 23mm F1.2をX-T5に付けて出かけたのだが、お粗末なことにピントが甘い写真が多かった。。また改めて写真を撮る機会があると思うけれど、今回の写真はこちらから。曇り空だったこともあってか、今回は珍しく多くの写真をPRO Neg. stdのフィルムシミュレーションで現像した。

ねじまき鳥クロニクル(小説)
「ねじまき鳥クロニクル」の舞台を観てから1週間ほどで村上春樹の原作(新潮文庫)を読了した。出版直後に単行本を購入して読んだ後で一度は再読しているはずだが、最後に通読してから15年以上は経っていると思う(そういえば、三女から学校の国語の先生が作った推薦本リストに入っている村上春樹作品はこの作品だけだと聞いたことがある。そのときは再読してみようと思ったのだが、結局手に取らなかった。)。複雑な小説を前に簡単なコメントをすることは憚られるのだが、読了して最初に思いを巡らせたのは、第1部から第2部と第3部では肌触りが違うという点だった。出版の時期も1年以上ずれており、メインストーリーとして描かれた時間の長さも異なるのだが、状況に流れが生じて主人公が「能動的」になったことと、文章の視点の切り替わりが増えたことは関係しているのだろうか。次に頭に浮かんだのは、「善い暴力」はあるのだろうかという疑問かもしれない。それは「悪い暴力」があるのかという疑問でもあり、「善さと悪さが混じり合った暴力」があるのかという疑問でもある。作品の中では、暴力の不可避性や(権力の)強さや弱さに関する言及はあっても、善悪への言及はなかったのではないか。20代で読んだ時よりは落ち着いて読めているように思えるのだが、それでもこの作品に正面から素直に向き合えているのか自信がない。もう少し時間をかけてゆっくりと読んで考えてみようと思って、そんな気持ちを忘れないように、今日は使い捨てではない長く使えるライターを買ってみた。いつか使うかもしれないバットを買ってみても良かったのだけれど。
マーラー交響曲第2番「復活」
東京芸術劇場で井上道義指揮、読売日本交響楽団の演奏でマーラーの交響曲第2番「復活」を聴いた。演奏が始まって最初に感じたのは、9日前に聴いたロイヤル・コンセルトヘボウとの「音」の違い、あるいは「音楽」の違いだったかもしれない。その印象は楽章が進んでもなかなか頭の中から消えなかった。良し悪しを付けるつもりはないのだが、違うのである。20日ほど前に聴いた井上道義と群馬交響楽団の演奏とも違う。そんな違いを感じつつ、指揮者とオーケストラの相性についても何となく思いを巡らせることになった。来年にかけて、井上道義といろいろなオーケストラの演奏を聴いてみたいと思う。「復活」は録音を聴くことは何度もあったのだが、コンサートで聴く機会はおそらく初めてで、曲の成り立ちや迫力をよりダイレクトに感じることができて嬉しかった。
ねじまき鳥クロニクル(舞台)
東京芸術劇場プレイハウスでInbal PintoとAmir Kligerのイスラエル人のふたりが演出した「ねじまき鳥クロニクル」を観た。原作を精密に解体して、暴力、セックス、死、異界、歴史といった諸々の要素や、井戸、壁、電話、バット、ライターといった様々な道具を取り出して、台詞とダンス、歌と音楽、美術と照明を複雑に組み合わせて響かせながら3時間弱の舞台に再構築した力作だったと思う。言葉を超えたものを身体で描こうとする表現の持つ魅力や、役者や照明と呼吸を合わせて奏でられる音楽の贅沢さ、そして役者の魅力(間宮の長台詞の力演!)のそれぞれが印象深かった。初演は観ていないのだが、繰り返し再演されることで深まっていく芝居のように思えた。原作は、書棚の単行本はいずれも初版第一刷で、発売直後の第3部を夏休みのモンゴル旅行に持って行って読んだ記憶があるのだが、英語のAudio Bookを入手していないこともあって、長いこと疎遠になっていた。舞台を観る前に再読できたのは第1部の最初だけだったのだが、それでも、以前とは違う新しい読書になる実感があった。若かった頃には分からなかったことが分かることもある。でもそれだけではなくて、若かった頃には感じられたことが感じられなくなってもいるのだろう。結局、手に持ったライターの小さな灯が広大な暗闇を僅かに照らし出す位置が多少変わっただけで、ライターの火が松明のようになることはないのかもしれない。それに、仮に篝火のように燃えたところで、自分の眼に見える範囲など高が知れたものなのだ。