神なき月十番目の夜

飯嶋和一著「神なき月十番目の夜」(小学館文庫)を読んだ。年が明けて飯嶋和一が解禁になったので、未読の小説のうち最も古いこの小説を手に取った。江戸時代の初頭に茨城県北部の小村で起きた百姓一揆が一村皆殺により鎮圧された事件を描いたこの小説には、人間の弱さが連鎖して悲劇を拡大していく点で、先日観た「ファーゴ」に通じるものを感じるし、また、権力が対立する者を殺めて排除していく様子には、これも先日総集編を観た「鎌倉殿の13人」に通じるものも感じる。権力も常に異分子を排除するわけではない。対話が成立せず排除に切り替わろうとするとき、逃げられるならば逃げるかもしれないが、逃げ(られ)ない場合にはどうするのか、「鎌倉殿の13人」のように様々な生き方があるのだろうし、「神なき月十番目の夜」の石橋藤九郎の生き方にも教わるところが大きい。飯嶋和一の未読の小説は「黄金旋風」、「狗賓童子の島」、「星夜航行」の3作品。新作を心待ちにしつつ、今年はあと1作品、多くても2作品を読むだけにしておこうと思っている。

フランシス・マクドーマンド

Olive Kitteridgeを観た流れで、フランシス・マクドーマンドがアカデミー主演女優賞を受賞した3本の映画を観た。「ファーゴ」を観るのは4回目くらいだけれど(誇張された登場人物が悲劇の連鎖を生み出す有様は、ある意味人間社会の悲劇の縮図を見るようで、この作品は悪ふざけに満ちた古典的な傑作ではないかと思う。)、「スリー・ビルボード」と「ノマドランド」を観るのは初めてで、続けて観てみると、確かにマクド―マンドがそれぞれの映画で演じるキャラクターに魅力と説得力を感じるのだけれど、それがミシシッピー・バーニングやコーエン兄弟の他の作品などを通じて築かれたマクド―マンド個人の俳優としてのキャラクターとも分かちがたく結びついて、より一層ファンの心を動かし支持を集めているような気がする。ドキュメンタリータッチの「ノマドランド」はそうした魅力に溢れた映画で、作り手が寄り添いつつ美しく描いたハウスレスな人たちの姿に、バックパッカー旅行中に出会った年長者のことを思い出したりもした。この映画は気になりつつもコロナ禍で劇場に足を運べずにいたのだけれど、次は、どこかの名画座の暗闇の中に身を沈めて、まばらな観客と一緒に観てみたいと思っている。

Olive Kitteridge(TVドラマ)

先日読んだ「オリーブ・キタリッジの生活」を原作とするTVドラマがあると知って、2014年に米国HBOで放送されたTVドラマ全4話(各話約1時間)を観た。最初は原作とはやや異なるフランシス・マクドーマンドが演じるオリーブの印象や独特の渋いユーモアに多少の落ち着かなさを覚えたものの、メイン州の自然や街並みの透明感のある美しさは格別で、続けて観ていくと、原作の様々な短編のエピソードが各話に重なりつつ散りばめられた構成や、老いていくことで重さを増していく人々の孤独の手触りに奥深さを感じた。登場人物のキャラクターや自然の描写を通じてクロズビーの街の空気を描いていくような原作の広がりのある魅力と比べると、TVドラマには、よりキャラクターに焦点を当てた凝縮感のある味わいがあるように思える。名優が出演しているとはいえ、楽しい出来事はあまりなく、辛い出来事を経験しながら老いていく普通の(やや変わった)人たちを苦めのユーモアを交えながら描いた(ある意味では地味な、高畑淳子と小林薫が老夫婦の日常を演じているような)この作品がエミー賞の作品賞を含む主要6部門を受賞したというのは、多少意外でもあるのだが、大いに納得もさせられた。

イェルサレムのアイヒマン

ハンナ・アーレント著、大久保和郎訳「イェルサレムのアイヒマン」(みすず書房)を読んだ。アイヒマンの裁判について知ったのはおそらく高校生の頃で、その後村上春樹の「海辺のカフカ」を読んだ時にも印象的なモチーフとして記憶に刻まれたのだが、この本は未読だった。國分功一郎の「中動態の世界」を読んだ流れでメルヴィルの「ビリー・バッド」を読み、映画「ハンナ・アーレント」を観て、あるいはリヒターの「ビルケナウ」を観て、この本を手に取ったのだが、なかなか身体が文体に馴染まなかったせいか、読み進むスピードが上がるまでに少し時間がかかった。ちらりと英文を読んでみると、明晰な頭脳がハイスピードで語るような文体に感じられて、そのニュアンスを活かしつつ忠実な翻訳をするのは難しいのかもしれない。この本は、副題にあるように「悪の陳腐さ(banality of evil)」という文脈で語られることが多いように思うが、ホロコーストに関する知識が少ない自分にとっては、ナチスのユダヤ人政策に対する各国・共同体のそれぞれに異なる対応にも考えさせられたし(デンマーク、イタリア、ブルガリア、あるいはルーマニアはどうだったのか)、裁判の正当性や(アイヒマンの拉致・裁判・処刑とビン・ラーディンの殺害はどう違うのか、ルワンダのジェノサイドはどう裁かれたのか、裁判管轄の及ぶ地理的な範囲外(例えばネット空間)の行為を裁けるのか)、さらに文脈を拡げると、昨年末のNHK「ザ・ベストテレビ」で紹介されていた出生前診断は政策的な生命の選択なのか、政府や法律に支えられた罪を考えるならば地球温暖化は将来世代に対する薄められた罪なのか、悪と善は対概念なのか、読み進めながら様々な問いを思い浮かべることになった。「想像力の完全な欠如」、「完全な無思想性」がもたらす「悪の陳腐さ」は重要な教訓だと思う(221-222頁)。ただ、この本やアイヒマンの裁判をこの極まり文句に押し込めることは、「彼(アイヒマン)の述べることは常に同じであり、しかも常に同じ言葉で表現した。…この話す能力の不足が考える能力-つまり誰か他の人の立場に立って考える能力-の不足と密接に結びついている」(38頁)といった思考停止と結びつきかねない。アイヒマンの裁判は、ラベルを貼って押し入れに放り込みたい気分にさせられるが、様々な角度から光を当てて考えるべき事件なのだろうと思う。

オリーブ・キタリッジの生活

エリザベス・ストラウト著、小川高義訳「オリーブ・キタリッジの生活」(ハヤカワepi文庫)を読んだ。いつ、どこで、なぜ買ったのかも忘れてしまうほど前から本棚にあった文庫本を何となく取り出して年末年始に読み進めたのだが、オリーブが主役や脇役、端役で登場する13の短編のうち3つめの途中に至るまで、何故か著者は男性だと思っていた。そんなこともあって、女性の著作を男性が翻訳するというのはどんな気持ちがするものなのだろうか、特にこの本のように同時代の人物を描写する同世代の女性作家の作品を男性が翻訳する面白さや難しさに想像を逞しくしてしまった。後半のいくつかの短編は、文章が少しカラフルになったような気がして、訳者のあとがきにあるように「オリーブの出番が少ないものの中には、この連作を発想するよりも以前に書かれた短編もありそうだ」ということなのかもしれない。そうした文章の微妙なブレや人物を描く視点のズレが幾重も重なりあって曖昧な像を結んでいくところに魅力を感じたし、人生の辛さが描かれていても、辛くなり過ぎずに読み進められたような気がする。読み終えてから著者について少し調べた際に、同じ著者・翻訳者の「バージェス家の出来事」を随分以前に読んでいたことに気が付いた。こちらも書棚の単行本のページをパラパラと捲ってみたが、再読する機会が先に来るのはオリーブなんだろうな、と思った。