N響第九 Special Concert

サントリーホールで下野竜也指揮、NHK交響楽団・中村恵理・脇園彩・村上公太・河野鉄平・新国立劇場合唱団の演奏でベートーヴェンの交響曲第9番を聴いた。同世代の下野竜也がN響の正指揮者に就任して今年の大トリを振るということで、楽しみにしていたのだが、12月後半の仕事の忙しさから来る疲労や睡眠不足で身体のコンディションが思わしくなく、十分に楽しむことができなかった。当たり前のことかもしれないけれど、健康な体と心があって初めて音楽も楽しむことができるのだと実感した。年末の第九は、去年がインバル・都響、一昨年が高関・東京シティ、その前(コロナの前)が大野・都響だったと思うけれど、ここ数年に聴いた第九と比べると、今回の第九からは優しい印象を受けたかもしれない。第九の前のバッハのオルガン曲やバーバーの弦楽のためのアダージョも、今年を締めくくるのに相応しい選曲だと感じた。

たわごと

東京芸術劇場シアターイーストで「たわごと」(作・演出:桑原裕子)を観た。芝居が観たいなぁと思って数日前に東京芸術劇場のサイトから選んでチケットを購入し、WEBのインタビュー記事や「荒れ野」の戯曲も読んで、どんな芝居だろうと楽しみにして出かけたのだが、期待に違わない練られた脚本・演出と味わい深い役者さんたち、心地よい美術や音楽といった芝居ならではの魅力を味わえて満ち足りた心持ちである。頼りにならないけれど頼らざるを得ない言葉の「たわごとさ」を巡る芝居は、姿を見せず言葉を話さず鈴を鳴らすだけの老作家の長大な遺言を動力として展開し、老作家が遺灰となり海に散骨される日に終わるのだが、その身体を見せない老作家が書いた遺言の言葉(と鈴の音)の質量や速度と、生身の役者が発する言葉の質量や速度の違いが、言葉だけのテクストとは異なる芝居の魅力を映し出しているようにも思えた。台詞と動きに満ちた役者たちの芝居の密度と老作家の存在感の余白の広さが対照的で、「荒れ野」の戯曲から受けたある種の緩いオフビートな空気感の面白さとはやや異なる、アンバランスな緊張感がもたらす動きや流れの魅力があるようにも感じた。老作家のテクストを愛したと言いつつその身体の死を痛切に悼む解子役の松金よね子が、老作家に久世光彦をイメージしていたとアフタートークで話していたが、自分にはまだ老作家の具体的なイメージが湧いていない。今日の観客は良い雰囲気だったと思うけれど(思ったよりも年齢層がやや高めだったかも)、皆さんどんなイメージを持たれたのだろうか。

小説の技法

ミラン・クンデラ著、西永良成訳「小説の技法」(岩波文庫)を読んだ。小説論を読むことはあまりないのだが(思いつくのは保坂和志の小説論くらいだろうか)、クンデラの作品は、随分以前に「存在の耐えられない軽さ」と「冗談」を読んだだけなのだが、いずれも印象深く、特に前者は映画を何度か観ていたり、西永良成と千野栄一の日本語訳の違いを強く印象付けられた記憶もあって、書店の書棚で偶々見かけた本書を手に取って購入した。クンデラの独特の小説のスタイルがどこから来るものなのか、翻訳をどう考えているのか、そもそも小説というものをどう捉えているのか、いろいろと考える切っ掛けをもらえる楽しい読書だった。自分は本に線を引いたりしない人なのだが、本書は読み進めながら気になった箇所の上に✓印を書き込んでいったところ、やはり第1部に印が多く付けられていた。クンデラの小説、あるいは本書で論じられているブロッホやカフカを読みたい気持ちになりつつも、本書と同時に購入した「巨匠とマルガリータ」を読み始めようか、ちょっと悩んでいる。

雑司ヶ谷、東池袋、護国寺

寒い日だったが、午前中からお昼過ぎにかけて護国寺、雑司ヶ谷、東池袋を散歩した。長いこと歩いたり走ったりしてきたエリアで、新鮮味はないかもしれないが、愛着はある。VoiglanderのNokton 23mm F1.2をX-T5に付けて出かけたのだが、お粗末なことにピントが甘い写真が多かった。。また改めて写真を撮る機会があると思うけれど、今回の写真はこちらから。曇り空だったこともあってか、今回は珍しく多くの写真をPRO Neg. stdのフィルムシミュレーションで現像した。