NHKホールでN響第2004回定期公演を聴いた。日本と米国にルーツを持つ井上道義が、日本のオケ、ロシアの独唱者、スウェーデンの合唱団と、ウクライナのキーウ近郊でナチスが3万4000人ものユダヤ人を虐殺した事件を題材としたためにソビエトの政治的な圧力を免れなかったショスタコーヴィチの交響曲第13番を演奏するという、背景に思いを馳せるだけでも複雑なコンサートだったのだが、この曲自体も、自分はほぼ初めて聴いたこともあって、複雑で大きな作品であることは感じつつも、身体に馴染ませることが難しかった。録音になると思うけれど、近いうちに再度この曲を聴いてみたいと思っている。先立って演奏されたシュトラウスのポルカやショスタコーヴィチの小品は、井上道義らしい?センスの良さと楽しさを感じさせてくれる選曲で、特にショスタコーヴィチの「リリック・ワルツ」と「ワルツ第2番」は印象深かった。そういえば去年の6月のコンサートで井上道義が振った武満徹の「ワルツ」も素敵だったと思い出したりした。
2024年1月は0キロ
2024年1月の月間走行距離は0キロだった。正月1日を実家で過ごし、2日から上海・蘇州への旅行に出かけ、帰国後まもなくコロナに罹患し、月末になって走ろうとしたところ左腿裏に痛みがあって止めてしまった。というわけで、特に上海では長い距離を歩きはしたものの、まったく走らなかった1か月になってしまった。2月は左腿裏の痛みに気を付けながら少しづつ走り始めたいと思う。
田村隆一
田村隆一の名前に最初に触れたのは、大学生の頃、山川直人監督「ビリイ☆ザ☆キッドの新しい夜明け」の中で高橋源一郎が「日本の三大詩人は、谷川俊太郎、田村隆一、そして中島みゆきですね」と話すのを聞いたときだったと記憶している。あの時も田村隆一の詩集を手に取ってみたはずなのだが、何を読んだのか、まったく記憶がない。昨年の10月、あの映画に映り続けたモニュメント・バレーで、宮本浩次が歌う中島みゆきの「化粧」を聴きながらそんなことを思い出して、去年の暮れから今年にかけて、田村隆一の「腐敗性物質」(講談社文芸文庫)、「1999」(集英社)、「ぼくの鎌倉散歩」(港の人)を読んだ。ひとりの詩人の言葉が人生の時間軸の中で大きく変化しつつも、やはり変わらないものもあるということを感じられたように思う。それにしても、田村隆一がアガサ・クリスティやロアルド・ダールの翻訳者だったとは知らなかった。
響きの森クラシック・シリーズ Vol.78
文京シビックホールで小林研一郎が指揮する東フィルの「響きの森クラシック・シリーズ Vol.78」を聴いた。1曲目はラフマニノフのピアノ協奏曲第2番。おそらく初めて聴いた松田華音のピアノはクリアで芯がありかつ華やかな音で、息の長いフレーズを丁寧に歌い上げる美しい演奏だったと思う。オーケストラとの絡みも、二楽章終盤の弦との掛け合いや、三楽章の豊かな響きが印象的だった。アンコールに弾いたシューマンの3つのロマンス(第2曲)も、ちょっとしたサプライズで嬉しかった。2曲目は新世界。2か月前に同じホールで聴いたコンセルトヘボウの新世界の印象がまだ残っているが、今日のコバケンと東フィルの演奏も、長い年月をかけて練り上げられ熟成されてきた音で、若干編成が小ぶりな分、それぞれの奏者が力強く演奏しているような印象を受けた。イングリッシュホルンを始めとする木管も、それからホルンも、味わい深い素敵な演奏だった。終演後の拍手をしながら、コバケンが少し歳を取られたかな(痩せられたかな)、と思ったりしたのだが、力強い声を聴くことができて安心した。来シーズンも響きの森を振ってくださるようで、いつまでもお元気でご活躍いただきたい。
巨匠とマルガリータ
ブルガーコフ著、水野忠夫訳「巨匠とマルガリータ」(岩波文庫)を読んだ。面白かった。1930年代に書かれた作品だが、初読の自分にとっては小説の地平を拡げていくような新しい魅力に満ちた読書だった。尽きることのない荒唐無稽でエネルギッシュな饒舌の底に、知的に冷めた情熱が静かに流れているような、一筋縄ではいかない重層的な声が感じられる。コロナの床につきながそれなりに時間をかけて読了したのだが、やはりこの作品には800頁分の言葉が必要なのだろうという納得感も感じている。1930年代に作曲されたものの1961年まで初演されなかったショスタコーヴィチの交響曲第4番を聴いた昨年秋の群響東京公演のパンフレットの記事が、同じように1966年まで(完全な形では1973年まで)活字にならなかったこの作品について触れていた。ごく短い言及だったけれど、この作品を読む切っ掛けをもらったことに感謝している。