曙橋・四谷三丁目・新宿御苑前

久しぶりのカメラ散歩になってしまったが、酷暑の中、曙橋四谷三丁目新宿御苑前を散歩してきた。
坂本龍一が「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」の中で触れていた永井荷風の「日和下駄」を読んで、四谷三丁目の南東の谷底に鮫ケ橋という貧民街があったことを知り、足を向けてみた。周囲の高台から流れ込む雨でよく氾濫したという桜川を暗渠にした道路の脇には高級マンションが立ち並び、当時の面影は全く感じられないのだが、桜川と交わる細い路地からは何処となく当時の暮らしの雰囲気を想像することができる。

Fujifilm X-T5 / Fujifilm XF10-24mmF4 R OIS WR
Fujifilm X-T5 / Fujifilm XF10-24mmF4 R OIS WR

久しぶりに新宿御苑にも行ってみて、そういえば、学生の頃だったか仕事を始めた頃だったか、新宿御苑の北側に建ち並ぶマンションに住んでみたいと思っていた時期があったことを思い出した。新宿御苑の緑がきれいだろうし、新宿の街にも歩いてすぐに出られる。結局このエリアに住むことはなかったけれど、もし何年かでも住んでいたら、自分の人生がいくらかでも変わっていただろうか、などと思ったりもした。

Fujifilm X-T5 / Fujifilm XF10-24mmF4 R OIS WR

怪物

奥さんとTOHOシネマズ日比谷へ出かけて「怪物」(是枝裕和監督)を観た。是枝監督の映画を観たい気持ちもありつつ、今回は坂本龍一の音楽が聴きたいという思いが勝っていたかもしれない。坂本龍一の「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」を読んでから、久しぶりに「シェルタリング・スカイ」を観たり、「async」や「Playing the Piano」、昔のアルバムやベスト盤などを聴いたりするうちに、「怪物」を観に行きたくなった。作品に寄り添いつつ作品を支える坂本龍一の音楽は、目立って前に出て行こうとはしないけれど、ピアノの音が印象深かった。カンヌで賞を得た脚本からは、傷つけられ、同時に傷付けてしまう人たちの様々な真実が複雑に重なり合いつつすれ違う世界の在り方を提示する巧みな力を感じた。美術や照明や録音や撮影は、リアリティとファンタジックな瑞々しさの両方の魅力を合わせ持つ精妙なブレンドが心地よかった。役者も、それぞれに確かな存在感があり、安藤さくらや現代のジョバンニとカムパネルラの二人も素晴らしかったが、特に永山瑛太の演技に心を動かされた。そして何度か映された諏訪湖の映像。あの空白に見える諏訪湖の映像が、何故かこの映画の記憶として深いところに沈殿していくような気がする。
余談だが、帰宅すると緋メダカが一尾こと切れていた。腹水病を患い始めたのは数か月前で、隔離して投薬したりもしたのだが、ストレスが大きそうで、結局、他のメダカたちと一緒に玄関先のビオトープで最後の日々を過ごしていた。餌を与えると、底土に頭を付けた病気のメダカの周囲を、迎えに来た他のメダカたちが励ますように泳ぎ回っていた。

これだけはわかってる(tsp NextStage)

東京芸術劇場シアターウエストでtsp NextStageの「これだけはわかってる-Things I Know to be True」(作:アンドリュー・ボヴェル、演出:荒井遼)を観た。登場人物は60歳前後の夫婦、30歳前後の長女、長男、次男と19歳の次女の6人、シンプルなセット、殆どのシーンは初夏になると善良な父親が手入れした薔薇が咲き誇るアデレード近郊の庶民的な家の庭で、1年間の家族の変化が会話とモノローグで描かれる。それぞれの役柄・役者から、舞台では直接的に語られることのない歳月、悩み、魅力、そして家族の外の世界との繋がりが感じられて、余白の広い脚本の構成と相まって、家族の在り様に思いを致しつつ、家族の外側でのそれぞれの暮らしや、その先にいる家族以外の人たちにも想像力が広がっていった。冷静に振り返ると、6人が6人とも、普通の人ではなかなか耐え難いような不幸や困難を抱えていて、その不幸や困難を家族が少しずつ分かち合っているのだが、こういったある意味では非現実的なまでに不幸で困難な状況をどう描くのか、脚本を書いたアンドリュー・ボヴェルはバズ・ラーマンと「ダンシング・ヒーロー」の脚本を書いた人だと知ったが、笑いの要素は控えめで、かといってリアリティや重さは持たせ過ぎない、そんなバランスの取り方が難しそうに思えた。遠からず夫婦の年齢に達する自分には考えさせられる台詞も多く、結婚してそろそろ四半世紀、3人の子供達はみな20歳を迎え、両親は共に80歳を超える歳になって、家族について「これだけはわかってる」と信じられることがどれだけあるのか、振り返りつつ考えてみたりしている。

響きの森クラシック・シリーズ Vol.76

文京シビックホールで東フィルの「響きの森クラシック・シリーズ Vol.76」を聴いた。指揮者にコバケンを迎えたチャイコフスキー・プログラムで、華やかなエフゲニー・オネーギンのポロネーズから、コロナ禍とホールの改修で3年半ぶりとなった響きの森が始まった。ヴァイオリン・コンチェルトは、黒とメタリックなブルーグレーのドレスを纏ったソリストの服部百音が、時折ステージを踏み鳴らしながら、引き締まった漆黒の音の渦を作る鍛えられた演奏だったが、そのクール・ビューティーな寒色系の音楽と暖色系が勝るオケの間にやや距離が開いている印象。チャイ5は、第一楽章からコバケン&東フィルの魅力が全開となるフル・スロットルの熱演で、第二楽章のホルンやオーボエの演奏も素晴らしく、後半もそのままの勢いが尽きない名演だったと思う。今回からシーズンチケットの座席を2階席にしたのだが、以前よりも音がダイレクトに届くような印象を受けた。時折左手後方に左腕と目線を投げかけるコバケンと目が合うような気もして、印象深いコンサートになった。

マティス展

東京都美術館で「マティス展」を観た。一人の作家の作品をクロノロジカルに観ると、やはりその作家の人生を想像してしまうのだが、特にマティスは自分と生年がほぼ100年違いなので、作品の年代とマティスの年齢が、100年違いで自分の過ごしてきた(あるいはこれから過ごすかもしれない)時間と何となく重なり合ったりして、また、100年前に自分が生まれていたことを想像したりもしながら、マティスの生き様に改めて敬意を抱きつつ、展示を楽しむことができた。自分には、マティスの絵が30代から40代にかけて力強さやある種の厳密な深みのある美しさを増していく様子や、60代以降のより自由で大らかな表現にも魅力を感じたが、50代の充実した複雑なハーモニーを聴くような作品にも強く惹かれた。
余談だが、展覧会のあとは、坂本龍一が「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」(新潮社)の中で立ち寄ったと書いていた古本屋を訪ね、単行本を数冊購入してから、日暮里の山内屋で日本酒とワインを購入して帰った。