生瀬一揆

飯嶋和一の「神なき月十番目の夜」の舞台となった小生瀬周辺を訪れてみた。17世紀初頭に徳川幕藩体制に組み敷かれることとなった奥久慈保内の中世的な共同体が、様々な要因が絡まり合って武力抵抗に至り、一村なで斬りの悲劇が生じていく様を描いた小説は、封建的な搾取が厳しい蔵入れ地での非人間的な暮らしと、独立したコミューンである保内の豊かな暮らしの対比や、地獄の黙示録をちょっと思わせる川を遡行する探索と殺人、無縁・アジールの場である「火の畑」(地獄沢)に逃げ込む村人と、その意味を解さない水戸の穴山衆による無差別殺戮など、飯嶋和一の小説の中ではやや思想的な記号や構造が強めな印象を受けていたのだけれど、袋田駅から月居山の峠道を越え、犬塚のあった水根、入り組んだ沢が走る山林、小生瀬の集落、直次郎の子が暮らした柿平、そして地獄沢へと足を進めてみると、飯嶋和一も実際にこの場所に来て想像を逞しくしたんだろうなぁと感じられて、ファンとしては頭だけでなく足で考える姿が垣間見えたようにも思えてちょっと嬉しかった。現在の小生瀬は極々普通の田舎の風景で、一揆を窺わせるものは何も見当たらない。生瀬一揆については、江戸時代後期の時点でも僅かな言い伝えが残っていただけのようで、水戸藩の正史には何も記録がない。実際に一村なで斬りの惨劇があったとしても、いつしか忘れられ、あるいは忘れさせられた出来事である。出来事を忘れずにいることは難しい。そもそも人の記憶は出来事の僅かな一面しか捉えられないし、それすらも時と共に変化し欠け落ちていく。その意味では、ある出来事に対する誠実な向き合い方は、忘れずにいることよりも、そのいくつもの変奏を他者や自分自身に対して語り継ぎ、問い続ける姿勢にあるような気もする。飯嶋和一の変奏には、飯嶋和一の分厚い技倆と誠実さが感じられるのである。

現在の小生瀬

田中一村展

東京都美術館で田中一村展を観た。幼少時から琢磨した南画や花鳥画の伎倆に写生の観察と修練、写真やおそらく西洋絵画からも様々な要素を取り込んで自らの絵画を育て上げていった一村の画家人生を300点余りの展示で辿る充実した回顧展だった。もっとも、多くの作品からは(同時期に開催されている千葉市美術館での展示に足を運んで観た作品からも)、芸術家の自由な精神の発露というよりも、注文主や贈り先のある一定の制約の下で描かれた職人としての絵師の仕事といった印象を受けた。それだけに、そうした生活に別れを告げて奄美大島に向かい、紬工場での労働と質素な暮らしで貯めた金で時間と高価な画材を手に入れて描いた「アダンの海辺」や「枇榔樹の森」といった60代の代表作の前に立つと、作品から匂い立つ静かな生命力に頭の下がる思いがする。義父が奄美大島出身、義母も両親が共に奄美大島出身、親戚には一村に肖像画を描いてもらった人もいて、今回の展示にあった肖像画もご先祖様のものではないかと妻や娘は図録を側に盛り上がっているのだが、そうでなくても、大島のルーツを改めて感じさせてくれる多くの素晴らしい作品を一村が残してくれたことを心から嬉しく思っている。

2024年10月は141キロ?

2024年10月の月間走行距離は141キロだった。もっとも、このうち10キロは野反湖一周のハイキング、51.6キロは会津田島から会津若松までの走り歩きだったので、実質的な走行距離は100キロくらいだろうか。10月はそれなりに走れたし、涼しくなってきたので、11月も100キロ超えを目指して頑張りたいと思う。スピードアップ&故障防止のためにも体重を落とさないと。

会津西街道(下野街道)

以前から長い距離を歩いてみたいと思っていたところ、東北諸藩が参勤交代に利用し、戊辰戦争では官軍が進軍して会津藩と激しく戦い、明治に入ってからはイザベラ・バードも旅したという会津西街道(下野街道)の旧道が一部残っていることを知り、会津田島から会津若松まで、旧道が残っているところは旧道を通りつつ、走れるところはキロ7₋8分程度のジョギングを織り交ぜながら歩いてみた。旧道は整備が行き届いているとは言い難く(紅葉シーズンの週末だったけれど、歩いている人はひとりも見かけなかった)、特に大内宿から会津盆地に抜ける区間はあまり人に薦められる道ではないのだけれど、豊かであっただろう昔を偲びつつ寂れた街道を歩きながら、富と交通、あるいは富と政治について感じさせられる良い旅だった。今回は鶴ヶ城にも行けなかったので、次回は東山温泉にでも泊ってゆっくりと会津での一日を過ごしてみたい。

土曜日の早朝に自宅を出て会津田島に向かい、駅近くの国権酒造を10時にスタートした。
楢原宿から大内宿まで約12キロの区間の3分の1程度はこうした旧道が残っている。この区間はところどころに標識があり、道に迷うことはなさそうに思える。
会津田島を出てから約22キロ、13時30分頃に大内宿に着いた。日没前に会津盆地に辿り着く必要があるので、短い滞在だった。
大内ダムから1.5キロ程度で旧道に入ってすぐの急登。道が分かりにくく、ガーミンの記録を見ると、自分は旧道を外れて通信用アンテナが設置された六石山の山頂を経由してから、一里塚と峠の茶屋の間まで下りて旧道に戻ったようだ。六石山の山頂を通る道は地図になく、登り返して分岐を確認したりで時間を使ってしまった。氷玉峠から先は新道を通ったのだが、旧道や氷玉川と出会うあたりは道なき道の状態で、最後は沢を歩くことになった。
16時50分の日没直後に福永宿に辿り着いてからはほぼ歩いてしまい、街道の起点であるゴール地点の大町四つ角に辿り着いたのは19時過ぎだった。ガーミンの記録では歩行距離は51.6キロ、獲得標高は1078メートル。この後、会津若松駅近くの富士の湯で汗を流してから、終電で自宅に帰った。

フランクフルト放送交響楽団

所沢ミューズのアークホールでアラン・アルティノグルが指揮するフランクフルト放送交響楽団の演奏を聴いた。全体を通じて、オーケストラの響きの軽やかさや自由闊達さといった雰囲気が印象深かった。統率された求心的な音楽というよりも、奏者が緩やかに繋がりながらアンサンブルを編み上げているような分散的、非中心的な響きというか、輪郭線や構造というよりも、(長くフランクフルト放送響を指揮したインバルと都響の演奏にも感じることがあるのだけれど)色彩や香りのイメージを感じた。1曲目のマイスタージンガーの前奏曲に続く2曲目はベートーヴェンの皇帝で、初めて聴くブルース・リウのピアノを楽しみにしていたのだが(やはりファンが多いようで、終演後のサイン会には長蛇の列ができていた。)、テンポや強弱と呼応しつつ音の彩度やコントラストが豊かに変化する鮮やかな演奏だったと思う。伝統に則った正統派の音楽というよりも、新しい表現を求める個性や探求心、あるいは時として自由な遊び心のようなものも感じた。アンコールのチャイコフスキーの小品(あまり弾かれない曲のようだが、三女は弾いたことがあるらしい)と休憩をはさんで3曲目の展覧会の絵では、ロシア的な音楽というよりも、ラヴェルらしい多彩な響きを堪能し、アンコールに演奏されたドビュッシーの月の光には、日本との繋がりを感じたりもした。最後まで充実したコンサートで、演奏後は立ち上がって拍手や喝采を送る聴衆も多かった。実家の母を誘ったこともあり、初めて所沢ミューズに出掛けたのだが、母も妻もコンサートを楽しんでくれたようで、良い思い出になった。