新宿三丁目から西早稲田

猛暑の中、日和下駄ならぬ日和”ベアフット”MERRELLを履いて、新宿三丁目東新宿若松河田牛込柳町を散歩してきた。20,000歩の長い散歩の締め括りは、50年ほど前に木造から今の鉄筋コンクリートの建物に建て替えられた戸山ハイツで、同時期に建てられた同じような造りの団地で育った自分には何処となく懐かしさが感じられ、また、人の気配が感じられないひっそりと静まりかえった佇まいに、老いの寂しさを感じつつも、ある種の安らぎを覚えたりもした。

Fujifilm X-T5 / Fujifilm XF10-24mmF4 R OIS WR

一週間後、また猛暑の中、早稲田西早稲田の散歩に出掛けた。早稲田大学とはあまり縁がなかったのだけれど、この街の雰囲気には惹かれるものがある。何と言うか、庶民の逞しさと学問の力がスクラムを組んでいるような、そんな気持ちのよさを感じる。東大を選ばずに早稲田に行った高校の同窓生や後輩の顔を思い出しながら、早稲田の魅力についてちょっと考えさせられた。

Fujifilm X-T5 / Fujifilm XF16-80mmF4 R OIS WR

余談だが、今回も写真を撮った環状4号線の延伸予定箇所を、3年前の夏にも写真に撮っていた。工事は今も目に見えて進んではいないのだが、延伸される場合、突き当たりの巨木の下にトンネルを通して不忍通りに接続するらしい。そのとき、あの木はどうなるのかなぁ。

August 2020
Fujifilm X-T4 / Fujifilm XF56mmF1.2 R

ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開

アーティゾン美術館で「ABSTRACTION 抽象絵画の覚醒と展開」を観た。セザンヌ、マネ、ゴッホ、ゴーギャン、ルドン、モネの並びで始まる第一室から見応え溢れる作品が連なり、解説も充実していて、力の籠った展覧会だった。20世紀初頭のパリの熱気を感じさせる作品も、戦後アメリカの経済力を感じさせる作品も、初めて出会う作品も、再会できた作品も、それぞれに魅力を感じたが、今日は、クレーの「Vision of Garden」、菅井汲の「赤い鬼」、イサム・ノグチの「独り言」、それから津上みゆきの作品に足が止まった。こうした作品に身近に接することができるのはとても有難いことで、美術館に感謝したい。あと、知的障害があって声や足音をたてる若者と前後して鑑賞する場面があったのだが、スタッフの方は温かい姿勢で接していて好感が持てた。そんなこともあって、作品を観たり解説を読んだりしながら今回は図録を買って帰ろうと思っていたのだが、サンプルのページを捲っているうちに、やっぱりまたここに来て作品を観ることにしようと思いなおしてしまい、代わりに家族に千疋屋のケーキを買って帰った。

2023年7月は20キロ+Walk

2023年7月の月間走行距離は20キロだった。結局7月下旬まで左足ハムストリングの痛みが去らず、その後ゆっくり走り始めてからも5キロまでに止めている。5キロのジョギングでも左腿にやや違和感が残っているように感じるので、徐々に距離を伸ばしていこうかと思っているけれど、来月も50キロ程度止まりかもしれない。それにしても暑い。すっかりご無沙汰なので長くは泳げないけれど、プールに行ってみようかなぁ。

メトロノーム・デュエット(奏劇Vol.3)

よみうり大手町ホールで「奏劇Vol.3 メトロノーム・デュエット」を観た。音楽と朗読のアンサンブルというコンセプトに興味を持って出掛けたのだが、一流の俳優の朗読にはイメージを喚起する力があることに気付かされて、詩や散文のストレートな朗読の魅力を味わってみたいと感じている。音楽と言葉の美しい出会いといえば、自分にとっては、オペラやミュージカルというよりも、矢野顕子のピアノと歌声、小田朋美が歌う日本の現代詩、ロッド・スチュワートとジェフ・ベックとかが思い出されて、それとは異なる形のケミカルに大いに興味はあるのだけれど、鮮やかに全体を描き出しながら流れていく音楽と、それよりもスローで時として鈍重な言葉をどう響き合わせるのか、音楽を言葉に寄せるのか、その逆なのか、まるで異なるテンポを併存させるのか、なかなか一筋縄ではいかなさそうに思える。難しいことは抜きにして、久しぶりにスネークマンショーでも聴いてみようかなぁ。

スローターハウス(serial number)

東京芸術劇場シアターイーストで「スローターハウス」(作・演出:詩森ろば)を観た。津久井やまゆり園の事件やヴォネガットの小説から着想を得て書かれた戯曲は、優性思想に基づいて知的障碍者を殺害した未成年だった若者と、出所した若者を事件から10年後に訪ねて来た被害者の母親が交わし合う言葉を中心に構成された約90分の会話劇で、母親の最後の言葉に向かって様々な葛藤と格闘、逸脱と回り道が繰り広げられるのだが、果たして母親の最後の言葉にどれほどの重さやリアリティがあったのか、今も良く分からない。優性思想の論理で身を鎧う若者に対して、生の実感や自分の気持ちを確かめながら言葉にしようとする母親は、目的を持って若者を訪ねて来たはずなのに頭も気持ちも整理できずにいて、そこに誠実さを感じるのだが、その母親が辿り着こうとした場所の言葉にどれだけの速度や質量があったのか、母親が若者に投げかけた言葉のかたまり、あるいは母親が若者を訪ねて来たという事実が、若者を、そして自分を、どれだけ動かしているのか、未だに量りかねている。