東京芸術劇場でイザベル・ユペールのひとり芝居を観た流れで、久しぶりにマイケル・チミノ監督「天国の門」を観た。大学生の頃に名画座で観て打ちのめされた記憶があって、自宅の本棚にはどうやら20年以上前に購入したらしいDVDがあるのだけれど、219分の長さやブラウン管サイズでレターボックス化された映像の小ささが災いしてか、おそらく10年以上は観ていなかった。そんな具合なので、前回観た時に何を感じたり思ったりしたのかはまったく憶えていないのだけれど、今回は、ハーバード大学の卒業生たちが女性たちと数十組のペアを組んで中庭を円舞するシーン、エラがプレゼントの馬車にジムを乗せて街の中心部をグルグルと疾走するシーン、移民たちがロマ風の音楽に乗ってローラースケート場を周回するダンスシーン、その移民たちが銃を持って傭兵たちを包囲し馬車や馬で旋回する戦闘シーン、そして傭兵の救援に現れた州の軍隊が移民と傭兵の間に割り込んで騎乗で巡回するシーンなど、人や馬が輪を描いて回る様子を撮影したシーンが印象的だった。全編を通じて、映像の美しさ、役者とキャラクターの存在感、ストーリーの語り口といったどの点を取り上げても味わい深く、219分がとても短く感じられる。やはり、この映画は映画館の大きなスクリーンで観たい!どこかで上映してくれないだろうか、と思ってネットを見ても上映館があるはずもなく、思わず中古のBlue-rayを購入して(相場は1.5万円から4万円のようだけれど、幸い1万円以下で購入できた。)、映画館には及ばないけれど、大きくなったデジタルリマスター版の映像を80インチのスクリーンにプロジェクタで投影して、再度じっくりと楽しんでしまった。
2025年10月は20.1キロ+Walk
2025年10月の月間走行距離は20.1キロだった。月間150キロ走れる身体を作ることと、体重を落とすことが今年の目標のはずだったのに、退化した1年となることはほぼ確実で、残り2か月でやれることをやらないと。とはいえ、こうしてやる気を出そうとはしてみても、数々のDNSを振り返るとレースにエントリーする気力も起きず、末期症状とは言いたくないけれど、なかなか重症です。
野反湖
11月頭の三連休に日帰りで野反湖に行ってきた。六合村から野反湖への道は素晴らしい紅葉だったけれど、野反湖の紅葉は終わっていて、岳樺の樹影が美しかった。10月の紅葉の時期に訪れる機会は多かったけれど、紅葉が終わった後の野反湖に来たのは2、3回くらいだろうか。あらためてこの季節の野反湖も素敵だなぁと思いながら湖畔を一周した。帰路は温泉をスキップして、前橋のラーメン屋で遅めのランチを食べた。もう30年以上も前になるけれど、前橋に1年と数か月のあいだ住んでいた頃、裁判所の近くにあったこの店に足繁く通った。移転後は数年に一度くらいしか食べに来られていないけれど、お元気そうなご主人と奥さんの姿を見ることができて嬉しかった。



[関田育子]『under take』
東京芸術劇場シアターイーストで演劇団体[関田育子]の『under take』を観た。ステージの床を1.5枚分取り除いて客席から奈落を見せて、両脇と正面の階段から役者が舞台と奈落を行き来し、舞台奥の2つの扉からはその奥のバックステージの廊下が覗き、舞台の床と壁面は黒く、一切物は置かれず、役者は普段着で演技するというシンプルな舞台設計だった。Family Affair的なエピソードがぽつんぽつんを置かれたような脚本で、芝居は、さほど面白くもないのだけれど、つまらなくはない。何でつまらなくないのかなぁと思いながら観ていたのだけれど、やはり「間」かなぁ、役者と役者の物理的な「間」や、動きと動きの時間的な「間」の味わいが、開放的な舞台設計を相俟って、劇場の重力が軽くなったような、ステージが3センチほど浮いているような、そんな印象を受けた。上演後のアフタートークでは、「物語」との付かず離れずの「距離」を測りつつ芝居を組み立てたという話しがあったり、芝居にしかできない「映像的」あるいは「マンガ的」な表現といったコメントがあったりして、自分の印象もそんなところからきているのかもしれないと感じたりもした。
チェコ・フィル東京公演
文京シビックホールでセミヨン・ビシュコフが指揮するチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏を聴いた。1曲目はスメタナのわが祖国からモルダウで、昨年聴いたコバケン/東フィルや高関/TCPOの演奏とはまた違って、水が小さな渦や大きな渦を巻きながら流れる様子が手に取れるような、やはり十八番のレパートリーとして練り上げられた演奏という印象だった。2曲目はチョ・ソンジンをソリストに迎えたラヴェルのピアノ協奏曲で、久しぶりに聴いたチョのピアノはやはり音色もリズム感も表現も素晴らしかった。何故か、第1楽章が始まってすぐから、15年前に聴いたアルゲリッチと新日本フィルの演奏が思い出されてきて、今年7月に上原彩子と東京交響楽団の演奏を聴いたときにはすっかり忘れてしまったと思っていた記憶が、チョとチェコフィルの演奏で呼び戻されたのか、演奏スタイルは違うし、むしろチョとチェコフィルの演奏にはやや希薄に感じられた、アルゲリッチがオーケストラと対話する魅力に思いを馳せたりしていたのだけれど、ちょっと不思議な気分だった。チェコフィルは1曲目や3曲目とほぼ変わらない全員参加型の大編成で、チョのピアノとの相性は、良いとは感じられなかったのだけれど、どちらかというとピアノをメインに楽しんだかもしれない。チョがアンコールに弾いたショパンのワルツ第7番(丁寧に磨かれた素敵な演奏だった。)と休憩を挟んだ後の3曲目はチャイコフスキーの交響曲第5番で、ピシリと統率が取れた演奏というよりも、団員ひとりひとりが奏でる音楽をひとつに纏めるのだから多少の雑味が生じるのは当たり前でそれが味わい、といった雰囲気の、切れのある淡麗辛口というよりは、複雑な芳醇旨口の演奏だったと思う。アンコールのカヴァレリア・ルスティカーナの間奏曲で、全ての弦がユニゾンで演奏する様子からは、そんなチェコフィルの個性と魅力がダイレクトに感じられたし、アンコール2曲目のドヴォルザークのスラヴ舞曲第1番では、そうしたオケのエンタメ精神が存分に発揮されていたと思う。ネットで話題になっていたチェコフィルのアジアツアーPR動画を見ていたからかもしれないけれど、振り返ってみると、どちらかというと真面目な日本のオケにはあまり感じられない、実力はあろつつも大らかで気取らないチェコフィルの魅力が詰まったプログラムであり演奏だったように思える。PR動画の大阪人ではないけれど、チェコフィルが身近になって好きになるような、そんな素敵なコンサートだったと思う。