Mary Said What She Said

東京芸術劇場プレイハウスで「Mary Said What She Said」(作:ダリル・ピンクニー、演出:ロバート・ウィルソン)を観た。ロバート・ウィルソンの演出作品というよりも、イザベル・ユペールのひとり芝居であることに惹かれて、行ってみたいという次女と一緒に出掛けたのだけれど、下調べが至らず、英語だとばかり思っていた台詞がフランス語で、舞台からやや離れた字幕を追いかけることにもだんだんと疲れや不毛さが募ってきて、イザベル・ユペールのオーラや迫力、繰り返されるリズミカルな台詞の効果、シンプルな舞台演出の美しさといった魅力は感じつつも、フランス語ができない自分にとっては何とも消化不良な観劇となってしまった。次女は「ピアニスト」も「主婦マリーがしたこと」も観ていないらしく、イザベル・ユペールといえば「天国の門」ということになるらしいのだが、自分にとってもこの映画は好きな映画で、イザベラ・ユペールといえば「天国の門」のエラの印象が強い。帰宅してから夕食の準備をしつつ自宅のDVDで「天国の門」を流してみたのだけれど、冒頭からやはりどのシーンも美しいなぁと思わす見入ってしまう。ローラースケート場のシーンあたりで切り上げることになってしまったけれど、近いうちにじっくり観てみたいなぁと改めて思ってしまった。

焼肉ドラゴン(演劇)

新国立劇場(小劇場)で「焼肉ドラゴン」(作・演出:鄭義信)を観た。3年半前に2008年の初演の映像をNHKのプレミアムシアターで観て心を動かされ、その後映画を観て、今回幸せなことに劇場で芝居を観ることができた。この作品は、やはりなかなか出会うことができない特別な作品なのだと思う。この作品を演じるコ・スヒや千葉哲也を観られるのはこれが最後かもしれないと思いつつ劇場に足を運んだのだけれど、パンフレットを見ると「2025年の今回が『焼肉ドラゴン』のファイナル公演となります」と書かれている。そんなことは言わないでもらいたい、という気持ちもありつつ、日本語と韓国語が交じり合うこの作品を上演するのは容易なことではないのだろう。最後の機会に間に合って良かったという気持ちと、もう観られないのだろうかという惜別の気持ちが綯交ぜになっている。同じ時間帯に新国立劇場のオペラパレスで「ラ・ボエーム」を観ていた妻には早速帰り道で薦めて、帰宅後すぐにチケットを1枚購入し、子供たちにも薦めてさらに別々の公演のチケットを2枚購入し、年末の中劇場での3日間の公演の最終日のチケットも購入した。この機会を逃さずにこの芝居を味わいたいと思っている。

「私が諸島である」と「君たちの記念碑はどこにある?」

中村達が書いた2冊、「私が諸島である—カリブ海思想入門」(書肆侃侃房)と「君たちの記念碑はどこにある?<カリブ海の記憶の詩学>」(柏書房)を読んだ。「私が諸島である」は、今まで知ることの少なかったカリブ海諸島の植民地支配の歴史を学びながら、人種や言語の違いによる差別や経済的格差を乗り越えようとした思想を共感を持って読み進めたのだけれど、そうした思想が顧みなかったフェミニズムやクィアの視点を論じた終盤の章を読むに至って、今まで頷きながら読み進めてきた自分がまったく見落としてきたものを突き付けられた思いがして、改めて自身の無理解や知ることの難しさに気付かされる貴重な読書体験となった。「君たちの記念碑」は、支配権力が記念碑を建てて顕彰する「歴史」からは排除される「記憶の詩学」、それは口承であり、文学であり、カリプソであり、中村達があとがきで「本書を通して紹介してきたカリブ海作家たちは、それぞれが提出した記憶の詩学の結晶において、風景に刻まれた記憶を救い上げる独特なヴィジョンを表現している。私はそのようなヴィジョンを通して描かれるカリブ海の記憶を、『地理』(geography)と『記憶』(memory)を掛け合わせて、『地憶』(geomemory)と呼びたい」と書いているような「地憶」かもしれない、そうした様々な時代の様々な場面におけるカリブ海の「記憶の詩学」を、記念碑を建てるやり方ではなく、様々な光をあてることで呼び起こそうとする本だったように思える。この2冊を読んでいる間に観たインド映画「私たちが光と想うすべて」が「私が諸島である」と響き合うように感じたことは、以前のブログにも書いたところだし、これ以外にも、例えば、先日東京都美術館で観た瀬尾夏美の作品で、「(東日本大震災の翌年に移住した陸前高田で)被災した町跡を毎日散歩し、スケッチを描き、写真を撮った。風景は途方もなく長い時間を抱えている」、「ぼくの暮らしているまちの下には、お父さんとお母さんが育ったまちがある」といった言葉と出会ったときにも、やはり響き合うものを感じた。「私が諸島である」がサントリー学芸賞を受賞した際の選評で、熊野純彦は「カリブ海でも独創的な思想が育まれて、世界を読み、世界を読みかえ、世界をつくりかえようとしている。それはカリブの文化と思想の『クレオール』性を刻みこまれ、そのクレオール性を、むしろ利点ともしてゆく思想である。その思想はまたどこかに到達しようとする思考の暴力性をまぬがれ、他者を『標的』とすることなく、むしろ他者を抱きとめ、他者と共にカリブの海に浮かび、潮の干満に揺られて海の只中にたゆたいながら、他者とたがいに手を取りあうことを可能とする思考である」と書いている。先住民がほぼ死に絶えた地に、アフリカから奴隷を、そしてインドから年季奉公を送り込み、プランテーションで強制労働を行わせ、様々な対立と争いを経験せざるを得なかったカリブ海の苛烈な歴史を思うと、「他者とたがいに手を取りあうこと」の難しさを感じざるを得ないのだけれど、そうした厳しい場所で鍛えられ育まれてきたカリブ海の思想や文化に触れる機会をくれた中村達の2冊に感謝している。

東京交響楽団第734回定期演奏会

サントリーホールでジョナサン・ノットが指揮する東京交響楽団・東京コーラス・東京少年少女合唱隊のマタイ受難曲を聴いた。まず、ソリストの歌が素晴らしかった。ミヒャエル・ナジの決然としたイエス、ヴェルナー・ギューラの温かな感情を感じさせるエヴァンゲリスト、アンナ・ルチア・リヒターの深みのあるメゾソプラノ、そしてユダやピラトを歌った加藤宏隆、65曲のアリアを歌った萩原潤、35曲のアリアを歌った櫻田亮もそれぞれに魅力のある歌を聴かせてくれたのだけれど、自分はソプラノのカタリナ・コンラディのアリアに、美しく磨きあげられた稠密な歌声とでも言えば良いのだろうか、一番の魅力を感じた。合唱も、特に第二部の迫力のある歌声は素晴らしく、オーケストラも特に後半に向けて盛り上がっていったような印象を受けた。マタイ受難曲の演奏を聴いたのは2022年のBCJのコンサート以来なのだけれど、何となく全体の構成が頭に入っていたことや、字幕がステージ後方に表示されたこともあって、今回はマタイ受難曲のドラマティックな魅力をより感じる機会になったような気がする。キリスト教世界としての生い立ちを持つ欧米の相対化が進む中で、マタイ受難曲の位置づけも変化すると思うけれど、多くの方々が様々な思いで聴いてきたこの曲の歴史には重みがあると思うし、今回のコンサートもほぼ満席で、この曲が愛されていることを改めて感じる機会にもなった。