小説の技法

ミラン・クンデラ著、西永良成訳「小説の技法」(岩波文庫)を読んだ。小説論を読むことはあまりないのだが(思いつくのは保坂和志の小説論くらいだろうか)、クンデラの作品は、随分以前に「存在の耐えられない軽さ」と「冗談」を読んだだけなのだが、いずれも印象深く、特に前者は映画を何度か観ていたり、西永良成と千野栄一の日本語訳の違いを強く印象付けられた記憶もあって、書店の書棚で偶々見かけた本書を手に取って購入した。クンデラの独特の小説のスタイルがどこから来るものなのか、翻訳をどう考えているのか、そもそも小説というものをどう捉えているのか、いろいろと考える切っ掛けをもらえる楽しい読書だった。自分は本に線を引いたりしない人なのだが、本書は読み進めながら気になった箇所の上に✓印を書き込んでいったところ、やはり第1部に印が多く付けられていた。クンデラの小説、あるいは本書で論じられているブロッホやカフカを読みたい気持ちになりつつも、本書と同時に購入した「巨匠とマルガリータ」を読み始めようか、ちょっと悩んでいる。

雑司ヶ谷、東池袋、護国寺

寒い日だったが、午前中からお昼過ぎにかけて護国寺、雑司ヶ谷、東池袋を散歩した。長いこと歩いたり走ったりしてきたエリアで、新鮮味はないかもしれないが、愛着はある。VoiglanderのNokton 23mm F1.2をX-T5に付けて出かけたのだが、お粗末なことにピントが甘い写真が多かった。。また改めて写真を撮る機会があると思うけれど、今回の写真はこちらから。曇り空だったこともあってか、今回は珍しく多くの写真をPRO Neg. stdのフィルムシミュレーションで現像した。

ねじまき鳥クロニクル(小説)

「ねじまき鳥クロニクル」の舞台を観てから1週間ほどで村上春樹の原作(新潮文庫)を読了した。出版直後に単行本を購入して読んだ後で一度は再読しているはずだが、最後に通読してから15年以上は経っていると思う(そういえば、三女から学校の国語の先生が作った推薦本リストに入っている村上春樹作品はこの作品だけだと聞いたことがある。そのときは再読してみようと思ったのだが、結局手に取らなかった。)。複雑な小説を前に簡単なコメントをすることは憚られるのだが、読了して最初に思いを巡らせたのは、第1部から第2部と第3部では肌触りが違うという点だった。出版の時期も1年以上ずれており、メインストーリーとして描かれた時間の長さも異なるのだが、状況に流れが生じて主人公が「能動的」になったことと、文章の視点の切り替わりが増えたことは関係しているのだろうか。次に頭に浮かんだのは、「善い暴力」はあるのだろうかという疑問かもしれない。それは「悪い暴力」があるのかという疑問でもあり、「善さと悪さが混じり合った暴力」があるのかという疑問でもある。作品の中では、暴力の不可避性や(権力の)強さや弱さに関する言及はあっても、善悪への言及はなかったのではないか。20代で読んだ時よりは落ち着いて読めているように思えるのだが、それでもこの作品に正面から素直に向き合えているのか自信がない。もう少し時間をかけてゆっくりと読んで考えてみようと思って、そんな気持ちを忘れないように、今日は使い捨てではない長く使えるライターを買ってみた。いつか使うかもしれないバットを買ってみても良かったのだけれど。

マーラー交響曲第2番「復活」

東京芸術劇場で井上道義指揮、読売日本交響楽団の演奏でマーラーの交響曲第2番「復活」を聴いた。演奏が始まって最初に感じたのは、9日前に聴いたロイヤル・コンセルトヘボウとの「音」の違い、あるいは「音楽」の違いだったかもしれない。その印象は楽章が進んでもなかなか頭の中から消えなかった。良し悪しを付けるつもりはないのだが、違うのである。20日ほど前に聴いた井上道義と群馬交響楽団の演奏とも違う。そんな違いを感じつつ、指揮者とオーケストラの相性についても何となく思いを巡らせることになった。来年にかけて、井上道義といろいろなオーケストラの演奏を聴いてみたいと思う。「復活」は録音を聴くことは何度もあったのだが、コンサートで聴く機会はおそらく初めてで、曲の成り立ちや迫力をよりダイレクトに感じることができて嬉しかった。