上海・蘇州

正月に上海・蘇州を旅行した(写真はこちら)。上海を訪れるのはこれで4回目になる。1回目は1997年6月で、神戸から鑑真号で上海に渡り浦江飯店のドミトリーに泊るというバックパッカーの定番コースで、1年間の旅行のスタート地点だった。2回目は同じ年の11月に今の奥さんと数日間の上海旅行を楽しんだ。3回目は2007年1月の家族旅行、そして今回も家族旅行である。1997年はOld Nostalgic Shanghaiの印象が強く、2007年は成長の熱気に圧倒された印象が強いが、今回はGlobal化した豊かさや成熟した落ち着きの印象が強い。蘇州は、2007年に訪れた際は静かな古都だった印象だが、今回は観光地として産業化された印象が強くなったと思う。同じ場所を年月を経て再訪することには、数年ぶりに会った昔の友人と四方山話しをするような楽しさがある。今回の旅行にもそんな楽しさがあり、おそらく最後の家族旅行になると思うが、良い旅行だったと思う。

蘇州(2007年1月)
蘇州(2024年1月)
上海(2024年1月)

2023年の読書・映画・演劇

2023年に読んだ本は39冊、観た映画は21本、観た芝居は14本だった。コロナが明けてから読書量も、映画・演劇を楽しむ時間も減ってきている。今年は特に後半のペースが鈍りがちで、美術館に足を運ぶ回数も減っていたと思う。リストを眺めてみると、読書は震災文学がひとつのテーマで、ただこれもそこまで読み込めた感じではない。映画や芝居は、気の向くままに観た感じだが、前半にまとめて観たフランシス・マクドーマンドの出演作品が印象深かった。今年の読書は上海旅行に持っていく田村隆一の「腐敗性物質」から。映画・演劇は何から始まるか分からないけれど、緩くテーマを持って読んだり観たりしていきたいと思っている。

2023年12月は40キロ+Walk

2023年12月の月間走行距離は40キロだった。月初めに3月のハーフマラソンにエントリーし、前半は5キロ×7回を無理はしない範囲でスピードを上げていってほぼ計画どおりだったのだが、後半は久しぶりに仕事が相当忙しく、月末に5キロ走っただけで終わってしまった。年明けも仕事は忙しそうで、3月のハーフマラソンがDNSになりそうな予感もありつつ、気を取り直して頑張っていきたいと思う。

N響第九 Special Concert

サントリーホールで下野竜也指揮、NHK交響楽団・中村恵理・脇園彩・村上公太・河野鉄平・新国立劇場合唱団の演奏でベートーヴェンの交響曲第9番を聴いた。同世代の下野竜也がN響の正指揮者に就任して今年の大トリを振るということで、楽しみにしていたのだが、12月後半の仕事の忙しさから来る疲労や睡眠不足で身体のコンディションが思わしくなく、十分に楽しむことができなかった。当たり前のことかもしれないけれど、健康な体と心があって初めて音楽も楽しむことができるのだと実感した。年末の第九は、去年がインバル・都響、一昨年が高関・東京シティ、その前(コロナの前)が大野・都響だったと思うけれど、ここ数年に聴いた第九と比べると、今回の第九からは優しい印象を受けたかもしれない。第九の前のバッハのオルガン曲やバーバーの弦楽のためのアダージョも、今年を締めくくるのに相応しい選曲だと感じた。

たわごと

東京芸術劇場シアターイーストで「たわごと」(作・演出:桑原裕子)を観た。芝居が観たいなぁと思って数日前に東京芸術劇場のサイトから選んでチケットを購入し、WEBのインタビュー記事や「荒れ野」の戯曲も読んで、どんな芝居だろうと楽しみにして出かけたのだが、期待に違わない練られた脚本・演出と味わい深い役者さんたち、心地よい美術や音楽といった芝居ならではの魅力を味わえて満ち足りた心持ちである。頼りにならないけれど頼らざるを得ない言葉の「たわごとさ」を巡る芝居は、姿を見せず言葉を話さず鈴を鳴らすだけの老作家の長大な遺言を動力として展開し、老作家が遺灰となり海に散骨される日に終わるのだが、その身体を見せない老作家が書いた遺言の言葉(と鈴の音)の質量や速度と、生身の役者が発する言葉の質量や速度の違いが、言葉だけのテクストとは異なる芝居の魅力を映し出しているようにも思えた。台詞と動きに満ちた役者たちの芝居の密度と老作家の存在感の余白の広さが対照的で、「荒れ野」の戯曲から受けたある種の緩いオフビートな空気感の面白さとはやや異なる、アンバランスな緊張感がもたらす動きや流れの魅力があるようにも感じた。老作家のテクストを愛したと言いつつその身体の死を痛切に悼む解子役の松金よね子が、老作家に久世光彦をイメージしていたとアフタートークで話していたが、自分にはまだ老作家の具体的なイメージが湧いていない。今日の観客は良い雰囲気だったと思うけれど(思ったよりも年齢層がやや高めだったかも)、皆さんどんなイメージを持たれたのだろうか。