東京オペラシティでTCPOの第371回定期演奏会を聴いた。モーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」序曲、小山実稚恵を迎えたベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番、シューベルトの交響曲第8番「ザ・グレート」というプログラムで、どの曲もそれぞれに楽しかったのだが、鈴木秀美の指揮から生まれる何処となく典雅で独特なリズム感がプログラムを通じて印象的だった。特にシューベルトは、両端楽章も迫力のある演奏だったが、2楽章の淡々としたリズムの奥でシューベルトが歌っているような響きに魅力を感じた。小山実稚恵のピアノも久しぶりだったが、情熱のこもった演奏だったと思う。アンコールのシューベルトの即興曲(Op.90-3)もしみじみと素敵な演奏だった。
雨とベンツと国道と私
東京芸術劇場シアターイーストでモダンスイマーズの「雨とベンツと国道と私」(作・演出:蓬莱竜太)を観た。東京芸術劇場のHPで3000円で観られる良さそうな芝居があることに気付き、何の予備知識もなくチケットを購入し、蓬莱竜太が数年前にNHKのプレミアムシアターで観た「まほろば」の書き手であることも観劇の前日に知った。夕方まで激しい雨が降っていたのに、劇場は満席で、自分のように一人で来ている客が多く、世代も性別もばらばらで、こういう観客を呼べるというのは素敵なことだよな、と芝居が始まる前から思ったりした。芝居は、いっぱいいっぱいで精一杯生きている人たちを、優しい目線で、楽しく、深く描いていて、8人のキャストのうち3人は女性なのだけれど、全体的にどことなく「男子っぽさ」を、壊れていくY染色体を抱えた不完全な男子の滑稽さと愛おしさを感じた。男性キャストだけでなく、主演の山中志歩の演技からくる印象もあったかもしれないし(「五味栞の恋」のシーンは男子の初恋っぽいテイストがあって、特に雨のシーンは好きだ。)、映画を巡る芝居であったこともあったかもしれない(好きな映画として名前があがっていた「薔薇の名前」、「未来世紀ブラジル」、「マッドマックス」、「ギルバート・グレイプ」、「ベティ・ブルー」とか、同世代(の特に男子)を感じる。)。パワハラやSNSやコロナなど、最近の話題や問題もあるのだけれど、最後に心に残るのはそれぞれに自分の全部を乗っけて走っている大人たちの姿で、その余韻がこの芝居の記憶となっている。それにしても全席自由席3000円は、観客のお財布に優しくてありがたいというだけでなく、値段が高ければ良いものだと安易に考えがちな世の中に静かに物申しているようで、じわっとかっこいい。
野反湖
早朝に自宅を出て8時30分頃に野反湖に着き、2時間少々で湖畔を一周した。レンゲツツジが満開に向かうところで、草木の若々しい緑や青い空や湖とのコントラストが美しかった。この時期の野反湖を訪れたのは初めてかもしれない。6月中旬でもまだ梅雨入り前で、10時頃までは青空が広がっていたが、その後は徐々に曇って来た。帰路は大滝の湯に立ち寄り、中之条から息子さんの運転で連れて来てもらったという90歳の老翁と湯の中で語り合い、湯畑の傍らでいつもの揚げ饅頭を食し、早めに草津を出た。

響きの森クラシック・シリーズVol.80
文京シビックホールで小林研一郎が指揮する東フィルの「響きの森クラシック・シリーズ Vol.80」を聴いた。一曲目は小林愛実をソリストに迎えたモーツァルトのピアノ協奏曲20番で、聴衆に向けて開かれていく華やかな音というよりも、良い意味で音楽に向けて閉じていく(深まっていく)集中力の高い音に聴こえた。アンコールの演奏(多分シューベルト?)も同様の印象で、NHKのクラシック倶楽部でショパンの前奏曲を聴いて心惹かれてから、この演奏を生音で聴いてみたいと思っていたのだが、今回の演奏を聴いてこの人が弾くベートヴェン、あるいはシューマンを聴いてみたいと思った。二曲目はスメタナの「わが祖国」から最初の4曲で、有名なヴルタヴァ(モルダウ)だけでなく、他の曲にもそれぞれの魅力があることを改めて感じさせられた。今回は数年前に傘寿を迎えた母と一緒に聴いたのだが、数年に一度しかコンサートに足を運ばない母も、コバケンの姿や小林愛実のピアノを心から楽しんでくれたようだった。アンコールのリクエストに応えてコバケンがピアノで弾いたダニーボーイを母と一緒に聴けたことも忘れられない思い出になった。
東京都交響楽団第1000回定期演奏会
サントリーホールでエリアフ・インバルが指揮する都響のブルックナー交響曲第9番を聴いた。都響の演奏には「緻密で明晰」なイメージがあるのだけれど、インバル・都響の演奏にはそれとは一味違った「香り」のニュアンスが感じられるような気がする。インバル・都響の一昨年の年末の第九を聴いた際のブログを読み返してみると、「フレーズの柔らかな語尾に音楽を慈しみつつ育んでいる余韻が感じ取れるような、五月のように若々しく香しい演奏」「音楽の幸福感」といった感想が書かれていて、同じ第九でもブルックナーは曲の表情が違うとはいえ、やはり自分には何かしら「香り」のようなものが感じられて、それが充実した「音楽の幸福感」をもたらしてくれるのかもしれない。今回のコンサートでは、第1楽章から第3楽章(ノヴァーク版)に加えて、SPCM版の第4楽章が演奏された。我が家にあるこの曲のCDにはいずれも第4楽章がなく、どことなく中途半端な印象もあってあまり聴いていなかったのだが、今回初めて第4楽章を聴いてみて、その復元に向けた尽力に感謝し、第4楽章まで完成した曲の魅力を感じつつも、「ブルックナーはどんな第4楽章を思い描いていたのだろう」と思いを馳せながら第3楽章までで終えるという選択もあり得るなぁ、などと身勝手な感想を持ったりもした。