東京シティ・フィル第370回定期演奏会

東京オペラシティでTCPOの第370回定期演奏会を聴いた。藤岡幸夫が指揮するオーケストラを聴くのは久しぶりで、高関健の演奏と違いが感じられるのか少し楽しみにしていたのだけれど、料理で言えば塩の効かせ方が少し違うような気がしなくもないけれど、同じ曲を聴き比べるのとは違い、正直なところはっきりとは分からなかった。今回の演奏では、特に3曲目のヴォーン・ウィリアムズ交響曲第2番でオーケストラが伸び伸びと大らかに鳴っていたように感じた。ソリストの福間洸太朗は、妻からピアノの先生の友人として名前を耳にする機会は多かったものの、演奏を聴くのは初めてで、やや硬質な透明度が高い音に感じられた。リストの曲にはやや苦手意識があって、今回のピアノ協奏曲第2番にも馴染みがないのだが、約20分の単一楽章の音楽がとても短く感じられた。アンコールのフォーレの無言歌第3番も味わい深い演奏で、ソロのコンサートにも足を運んでみたいと思った。

Last Days 坂本龍一 最期の日々

NHKスペシャル「Last Days 坂本龍一 最期の日々」を観た。録画した番組を3回も繰り返して観たのは、人の死に思いを馳せる貴重な機会だったこともあるけれど、この番組から広がって舞い戻る行ったり来たりの動きを繰り返したこともある。坂本龍一の病室のテーブルに重ねられていた本の一冊がタルコフスキーの「映像のポエジア」だったので、本棚から取りだして「序章」や「音楽と騒音」などところどころを読み返し、タルコフスキーの映画を3本を観た。「ほくはあと何回、満月を見るだろう」の中でタルコフスキーの映画音楽を意識したと書かれていた「async」を何度か聴いて、どの映画だろうと思いを巡らせたり、「12」を聴いて同じことを考えたりもした。この本に登場する谷中の古本屋に出掛けた折に購入してあった鶴見俊輔の「埴谷雄高」を読み、埴谷雄高の文章もいくつか読み、埴谷雄高について坂本龍一を含むいろいろな人にインタビューをした本を読んだりもした。そんなことをしながら、また番組を観たりしていたので、3回も観ることになった。久しぶりに手に取った「映像のポエジア(Sculpting in Time)」に改めて興味を覚えたので再読してみたいし、残りのタルコフスキーの映画も観たい(「ローラーとヴァイオリン」のDVDが発売されていたことを知って、買ってしまった。)。「映像のポエジア」と一緒に重ねられていた本も読んでみたいし、坂本龍一の本棚にあったグレーバーの「負債論」も積読になってしまっている。そんなこんなで、これからも時間をかけて坂本龍一を思い出しながらの行ったり来たりを繰り返すことになるような気がする。結局のところ、自分にとって坂本龍一はまだ死んでいないのだろうと思う。

2024年4月は50キロ+Walk

2024年4月の月間走行距離は50キロだった。先月よりも少し増えたし、4月中も前半が15キロ、後半が35キロだったので、多少走る距離が伸びてきたといって良さそうに思える。もっとも、年号が令和に変わったGWのときは10日間で100キロ走っていたのだから、まだまだこれから、まずは月100キロまで増やしていきたい。

La Mère 母

東京芸術劇場シアターイーストで「La Mère 母」(作:フロリアン・ゼレール、演出:ラディスラス・ショラー)を観た。同じ場面や重なり合う場面を塗り重ねて人間を重層的に描き出す方法が興味深く、前日に映画「ファーザー」を観たこともあり、「La Mère 母」のこの方法の延長線上に「Le Père 父」があることが感じられた。「ファーザー」のアンソニー・ホプキンスも凄かったが、「La Mère 母」の若村麻由美も様々な人格を走りながらカラフルに演じていく姿が素晴らしく、自分にとっては「Le Fils 息子」よりも「La Mère 母」の方が数段楽しく感じられた。(「Le Fils 息子」の時よりも客席には芝居好きの方が多かったかもしれない。)もっとも、展開のスピード感もあってか人物の描き方にやや紋切型な印象を受けることもあって、若村麻由美がアンヌを演じた「Le Père 父」の舞台も観たかったなぁ、と思ったりもしている。

ファーザー

映画「ファーザー」(フロリアン・ゼレール監督)を観た。フロリアン・ゼレールの「Le Fils 息子」の舞台を観て、これから「La Mère 母」の舞台を観るタイミングで、3部作のひとつ「Le Père 父」の映画版を観たのだが、これは面白い映画だった。認知症を患う老境の父親という家族や社会の課題を素材として描きつつ、認識や記憶という人間の根幹に関わる不穏さや不安を美しく静かな室内映像で綴っていく時間は知的にスリリングで、最近、東京都写真美術館で記憶に纏わる展示を観たことや、響きと怒りを異なる翻訳で再読していることもあってか、いろいろと好奇心や思考を掻き立てられた。舞台と比較すると映画は情報量が多く、舞台では余白を含めて場の雰囲気や気の流れを全体として味わっているように改めて感じられる一方で、映画では(観てきた本数が多いからかもしれないけれど)細部に目が行く、特にこの映画では俳優たちの一瞬一瞬の表情を味わっていたように感じる。メインキャストのどの俳優も素晴らしかったと思うのだが、この映画の屋台骨を支えるアンソニー・ホプキンスの凄みには改めて感銘を受けた。老境の「父」に「母」を探させたフロリアン・ゼレールが、どんな「La Mère 母」の舞台を書いていたのか、今から舞台が楽しみである。