神護寺展

東京国立博物館で「創建1200年記念特別展 神護寺 空海と真言密教のはじまり」を観た。ご縁があって招待券をもらった妻に誘われて、何の予備知識もなく、むしろ谷中のSUGIURAでのランチや山内屋のお酒を楽しみに出掛けたのだが、9世紀の両界曼荼羅(会期の前半は胎蔵界、後半は金剛界のみ)や本尊の薬師如来像、そして空海の真筆など、大いに見応えのある展示だった。特に両界曼荼羅は圧巻で、最近のテレビ番組で修復作業の様子に触れていたこともあってか、この作品や仏教・密教が日本の思想や文化に与えてきた影響に思いを巡らせながら優に1時間は眺めていられるインパクトがあり、個人的には「神護寺展」というよりも「両界曼荼羅展」、あるいは「神護寺-両界曼荼羅と1200年の歩み」と言いたくなるような力があった。会期が始まって最初の週末ということもあってか、それなりに来場者は多かったのだが、中国語を頻繁に耳にした。中国語圏の方の関心を集めているのだろうか。展示品が里帰りしてから、できれば紅葉の季節にでも京都の神護寺に行ってみたいと思っている。

余市と小樽

80歳を迎える義父母と夫婦で今年の3月に旅行した余市と小樽に、今度は結婚60周年を迎えた自分の両親と夫婦で旅行してきた。定山渓温泉の厨翠山で一泊した翌日に、羊蹄山の山麓を3分の1周して余市を通り、再び小樽の銀鱗荘に宿泊した。季節が変わると土地の印象も変わるもので、生命力溢れる7月の緑の北海道も素敵だった。レンタカーで借りたスバルのLegacy Outbackでのドライブも快適で、次はいつか紅葉の北海道をドライブしてみたいと思っている。

余市のナナツモリ・ヴィンヤードの眺望
宿泊した銀鱗荘の部屋からの小樽の眺望

狗賓童子の島

飯嶋和一の「狗賓童子の島」(小学館文庫)を読んだ。久しぶりの飯嶋和一である。飯嶋和一を知ったのは一昨々年の秋に日経新聞の文化欄に掲載された「始祖鳥記」を紹介する記事だった。その後「出星前夜」、「始祖鳥記」、「雷電本紀」、「汝ふたたび故郷へ帰れず」、「神なき月十番目の夜」、「黄金旋風」と作品を読んできて、出版順に読んではいないものの、年を経るにつれて作家の筆が冴えてくる様子を感じていた。そして、今回の「狗賓童子の島」、1年ぶりの飯嶋和一にどんな作品だろうかと期待するところが大きかったのだが、前半までを読んだ時点では、「前作を超える最高傑作!」といった印象は持てなかった。読了しても、そういった印象はない。しかし、この作品には、今までの作品よりもやや引いた視点から、温かさと苦さの入り混じった視線で様々な人生や社会を眺める静かで清んだ味わいがあるように感じられて、それが複雑な経路を辿って身体に沁みてくる。「出星前夜」の出版時に飯嶋和一は55歳、「狗賓童子の島」の出版時は62歳、この年齢の違いがもたらしたものだろうか。あるいは書き下ろしではなく連載で書かれたことも影響するのだろうか。どうにもならない制約の下で生きる人たちのそれぞれの「我欲」と「善意」が「不幸」と「分断」を生じさせる様を描いたこの作品の魅力は、おそらく自分がこれから年齢を重ねることでさらに増していくような気もする。「出星前夜」を読む前から島原の乱には興味があり、南島原を旅してみたいと思い続けてきたのだが、「狗賓童子の島」を読んで、隠岐の島もいつか訪ねてみたいと思っている。

江戸時代の思い出

本多劇場でナイロン100℃の公演「江戸時代の思い出」を観た。なかなかコメントが難しいのだが、こうした3時間の力業でしか味わえない世界っていうのもあるんだな、といった妙な納得感がある。「理解不能」なものをそのまま受け止めて味わうという意味では、唐十郎の「泥人魚」もそうだったと思うのだけれど、今回はもっとナンセンスで、乾いていて、お祭り的で、笑いがあって、最初から最後まで馬鹿々々しくて、ところどころ冗長で、どことなく親密さもあって、ベテランの技と若気を忘れない攻めと遊びの匂いがあって、自分にとっては「素晴らしい!」だとか「傑作!」だとか手放しで褒めたくなるような感じではないんだけれど、観終えた後で手の中に残る確かな存在感がある。それは、結局のところ芝居を作っている人たち(と芝居が好きな観客)の存在感なんだろうなぁと思ったりもしている。

2024年6月は80キロ+Walk

2024年6月の月間走行距離は80キロだった。だんだん暑くなってきたこともあり、長い距離を走るのが辛くなってきて、今月はマックス15キロだった。一回に走る距離を短くしてペースを上げていこうかと思っている。