写真の山

東京都写真美術館で「巨匠が撮った高峰秀子」、「アレックス・ソス 部屋についての部屋」、「日本の新進作家 vol.21 現在地のまなざし」を観た。「巨匠が撮った高峰秀子」は、写真作品を観るというよりも高峰秀子の仕事を振り返る機会になり、何本かの映画は観てみたいと思っている。「アレックス・ソス 部屋についての部屋」からは、人を撮ることとその人の身の回りの物を撮ることの関係について考える機会をもらった。「日本の新進作家 vol.21 現在地のまなざし」は、5人の作家のいずれの展示も面白かったのだけれど、出口を出たところに展示されていた原田裕規の「写真の山」が心に残った。一般家庭からゴミとして集められた大量の「行き場のない写真」の中から数百枚程度をテーブルの上に無造作に置いて「展示」した「写真の山」は、一枚一枚手に取って眺めてみると、その大半は数十年前の見知らぬ日本人の結婚式だったり、家族旅行だったり、同窓会だったり、日常生活だったり、9割以上は人を写した写真だった。フィルムを現像してプリントしていた時代の写真の在り方や、そうした写真が「行き場をなくす」までの役割や時間の長さ、そしてデジタル化がもたらした変化の大きさについても改めて考える機会をもらった。

鶴人

座・高円寺でカムカムミニキーナの第74回公演「鶴人」を観た。TBSドラマ「不適切にもほどがある!」の中で八嶋智人が告知していたカムカムミニキーナの公演が実際の公演だったことを知った奥さんが、観客の間口が広く敷居が低そうな劇団名に惹かれていたところ、杉並区の情報誌でこの公演を知ったようで、チケットを購入した。平安京の女性を描いた今年の大河ドラマの向こうを張ってか平城京の女性を描いた芝居は、20人を超える役者が100年の歴史にわたる複数の役を演じ分け、10分の休憩を挟んで150分を超えるという大作で、歌あり、踊りあり、バカバカしいドタバタありの賑やかな芝居だった。奥さんは、こういった味わいの芝居が好きで気に入ったらしい。自分は、荒谷清水の芝居が良かったなぁ。久しぶりに高円寺に出掛けることになったのだが、商店街が元気で楽しそうなお店が多く、暮らしてみたい街だなぁと思った。

2024年11月は30キロ+Walk

2024年11月の月間走行距離は30キロくらいだった。奥久慈で走った距離が20キロあまり、あとは10.4キロしか走っていないので、トータル30キロくらい。痛風が疑われて休んだり、週末に山形に出掛けたり、冷え込んできたりでサボってしまった。12月はハーフにエントリーしているのだが、またもやDNSか。練習がてらに走ってみようとは思っているのだけれど。

西川町間沢

週末の2日間で母の故郷である山形県西村山郡西川町間沢に出掛けてきた。母にとっては高校を卒業するまで大家族と暮らした土地で、80歳を超えて久しぶりに訪ねてみたいと口にすることが多くなっていた。自分にとっても半世紀近く前に小学校2年生の夏休みをまるまる過ごした思い出深い土地で、今回は母、妻、娘3人と自分の総勢6人で間沢を訪ねることになった。間沢に住む2人の従兄弟と、山形から来た2人の従兄妹に久しぶりに会い、祖父母や伯父夫婦のお墓参りもすることができた。話を聞くと、人口の減少や高齢化が進んでいるようで、「セブンイレブンがある間は大丈夫」と聞くと、ありがたくもありつつ少し寂しくもあったけれど、紅葉が進んだ山は美しく、雨上がりの空気が澄んでいた。自分が暮らす場所と離れた場所に心を寄せることは、昔からそう思ってきたけれど、大切なことだと思う。間沢には今回も楽しませて頂いた山菜料理の魅力もあり、春が来て山菜が出始めるころ、あるいはもう少し季節が進んで月山筍が美味しくなるころに、また訪れてみたいと思っている。

裏山の畑から天狗山を望む
出羽屋の七茸汁

東京シティ・フィル第374回定期演奏会

東京オペラシティで小林研一郎を指揮者に迎えたTCPOの第374回定期演奏会(チャイコフスキー:交響曲第4番、第6番)を聴いた。前回の定期演奏会のプレトークで高関健がカレル・アンチェルについて馴染みの薄いオケと演奏することの難しさについて語り、今回も第6番の演奏前に小林研一郎が26年ぶり2度目のTCPOとの演奏への緊張感について触れていたけれど、どんなに百戦錬磨であったとしても初顔合わせの指揮者とオケの演奏がチャレンジであることは想像に難くなく、それだけに貴重な体験ができたコンサートだったと思う。第4番の冒頭はオケに硬さが感じられたけれど、第1楽章の中盤からは大分温まってきて、両端楽章は盛り上がっていたのだが、穏やかな中間楽章は指揮者とオケが間合いを測りながら試行錯誤しているような印象も受けた。第4番の後の短いトークで小林研一郎が「刹那に生きている」と言っていたけれど、一瞬一瞬どう音楽を創っていくか考えて試みながら音楽が過ぎ去っていくといった濃縮された時間だったように思える。言葉は至らないけれど、高関健とTCPOの音楽がオーケストラの100%の実力を磨く方向だとすると、小林研一郎の音楽はオーケストラから110%の音楽を引き出そうとする、よりドラマティックで、音楽の神様への「祈りのコバケン」の音楽と感じられて、改めてそれぞれの音楽の個性と魅力に思いを巡らせる良い機会になった。第6番に入ってからも、コバケンは東フィルを指揮するときよりも細かくオケとコミュニケーションを取ろうとしているように見受けられたのだけれど、オケとの距離は徐々に縮まり、ドラマティックで迫力のある第3楽章を堪能した後の第4楽章の音楽からは、コバケンの祈りが聴こえてきたような気がする。アンコールに演奏された第6番第3楽章最終部分の再演奏を含めて、聴衆だけでなく演奏者にとっても充実したコンサートだったように思える。