ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?

国立西洋美術館で「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」を観た。国立西洋美術館は「未来の芸術」を生み育てる土壌となり得てきたか、という問いかけに(国立西洋美術館では基本的に収集や展示を行わない)現代美術の作家が作品で応答するというとても興味深い展示で、作品や作品を巡るテキストを行き来しながら3時間ほど楽しい時間を過ごさせて頂いた。坂本夏子の「入口」や坂本夏子と梅津庸一のファンタジックな「絵作り」といった作品の絵葉書があったら子供たちへのお土産に買って帰ろうかと思っていたところ、絵葉書の販売はなく(写真も撮っていなかった)、図録を買って帰ったのだが、図版ではなく読み応えのある文章が大半を占めている。冒頭の田中館長と新藤研究員(弓指寛治の作品にも登場する本展企画者)の文書を読み終えたところだが、田中館長が期待したようなポリフォニックな展示になっていたと思うし、新藤研究員が指摘するアガベンの「同時代性=アナクロニズム」は、この企画展だけでなく、前日に観たショーン・ホームズの「リア王」とも響き合って、ますます刺激的である。図録を読んでから、会期中にもう一度出かけてしまうかもしれない。お土産を渡せなかった子供たちにも訪問を勧めておこうかと思っている。

【追記】図録を完読し、田中館長と新藤研究員のウェビナーも参加し、いろいろなWEB記事も読んでみたこともあって、最終日に再度企画展に足を運んでみた。二度目の訪問で、最後の作品の写真を撮っておきたかったこともあって、朝一番に入って最後から戻るように気になる作品を観ていったのだが、そのおかげで途中までは貸し切りのような環境で楽しむことができた。企画展の後で常設展にも足を向けたのだが、最後の展示でルオーやルノワールの絵が子供・車椅子目線で掛けられていて、これも楽しめる展示方法だなぁと小さな変化を心強く感じた。子供たちは結局観に行かなかったようだが、三女が送ってきた山本浩貴のTokyo Art Beatへの寄稿記事(2024年3月11日に国立西洋美術館で起きたこと、2023年10月7日から-あるいは、もっと以前より、そして、この瞬間も-ガザで起きていること)は読み応えがあった。

リア王

東京芸術劇場プレイハウスで「リア王」(演出:ショーン・ホームズ)を観た。幕が上がり、椅子、コピー機、プロジェクタといった現代のオフィス機器が疎らに置かれただけのシンプルな白い舞台で、現代の普通の衣装を纏った役者が400年前のシェイクスピアの台詞を放つのだが、そこに違和感が感じられないことに新鮮な驚きを覚えた。芝居が進み、舞台は奥の方にまで広がり、そこには根を露わにた1本の木が宙に浮いているのだが、美術や音響は極めてシンプルなままで、役者の存在感、声の大きさとトーン、注意深くデザインされた動きが、シェイクスピアの戯曲を活き活きと立ち昇らせる。何と言うか、現代の視覚的な記号を散りばめつつも、「リア王」の骨格や細部を鮮明に描き出すことで、400年前から上演されてきた芝居に共通する本質が現れる、言葉も文化もあらゆることが異なるように思える1600年頃の英国人が自分たちと同じように共感し、楽しんでいた芝居小屋の高揚感がすぐ隣にあるような、この芝居の長い歴史と共に観劇しているような、そんな感覚を覚えた。そう思うと、あの宙に浮いている木は能舞台の松のようだという妻の感想も、あながち的外れではないような気もしてくる。妻は浅野和之のグロスターに一番魅力を感じたそうで、自分もやはり大ベテランの役者たちが演じるキャラクターに魅力を感じたのだけれど、玉置玲央のエドモンドにも魅力を感じた。役者にとっては逃げ場も誤魔化しも効かないプレッシャーがかかる演出だったように思えるのだけれど、素晴らしい芝居だったと思う。「リア王」は数年前に4種類の翻訳を読み比べたことがあり、テキストには多少馴染があったのだが、この芝居を通じて改めて戯曲の力を感じさせられたし、最後のエドガーの台詞がこの戯曲への賛辞にも感じられた。

2024年3月は20キロ+Walk

2024年3月の月間走行距離は20キロだった。月末に走るつもりだったハーフマラソンはDNSで、モチベーションも上がらない。4月から新年度が始まるし、腿裏の痛みも大丈夫になってきたようなので、立て直しを図りたい。

中平卓馬 火-氾濫

東京国立近代美術館で「中平卓馬 火-氾濫」を観た。いろいろな機会に中平卓馬の名前や写真、文章に接することはあっても、まとまった数の作品をクロノロジカルに観たことはなかったので、時代を背景にした作家の遍歴を感じらる良い機会だった。改めて向き合うと自分には抽象度が高いと感じられた第1章「来るべき言葉のために」の「アレ・ブレ・ボケ」の写真から、「事物が事物であることを明確化することだけで成立する」方法を目指す「植物図鑑」の宣言を経て、急性アルコール中毒による記憶喪失後のある意味突き抜けた印象を受けるカラー写真へと変わりゆく姿が思い返してみてもやはり印象深く、特に晩年の写真には、その写真だけを見てもなかなか感じることができない魅力を味わうことができたように思う。画面上で鑑賞される古びることのないデータとしての写真が溢れる状況の中で、50年前にプリントして展示された「氾濫」と2018年に新たにプリントされた「氾濫」を観る機会を得て、物としての写真や技術について考えさせられたことも、貴重な体験だった。

私たちのエコロジー

森美術館で「私たちのエコロジー」を観た。六本木ヒルズでの所用を済ませた後に、時間に少し余裕があったので、森美術館開館20周年記念展はどんな展覧会だろうかと思って出かけたのだが、残念ながらかなり急ぎ足での鑑賞だったこともあってか、自分にはあまり刺さらなかった。森美術館に足を運ぶ機会は少ないのだが、ここを訪れると展示室の壁一面の窓から見下ろす東京の眺望にいろいろと考えさせられる。この窓からの眺めが、なかなかパワフルな作品に思えるのである。