ハニワと土偶の近代

東京国立近代美術館で「ハニワと土偶の近代」を観た。縄文時代から弥生時代を経て古墳時代に至る時期のハニワや土偶を始めとする遺物を、江戸末期から明治、戦中、戦後を経て現在に至る社会、芸術、サブカルがどのように受け止めて来たかをクロノロジカルに展示する企画で、同じ遺物がそれぞれの時代の光を当てられて異なる文脈に位置づけられる様子が興味深く、また、そうは言っても遺物そのものは同じ「もの」で、この「もの」の存在が発散する時代を通じて変わらない力、素焼きの土の素材感や丸みをおびた柔らかいデザインの持つ温かさや何処となく漂うユーモアやペーソスといったものがそれぞれの時代の人たちに語りかけてきた歴史にも思いを巡らせることになった。友達に薦めてもらい会期末に間に合って幸運だった。東博の特別展「はにわ」を見逃してしまったのは惜しまれるのだけれど。
余談だけれど、同時に開催されているMOMATコレクション展で展示されている芥川(間所)紗織の染色絵画と清野賀子の写真を観に立ち寄って、これらの作品も良かったのだけれど、近くに展示されていた石井茂雄の「戒厳状態」の前で充実した時間を過ごすことができた。

樫本大進&ラファウ・ブレハッチ

所沢ミューズのアークホールで樫本大進とラファウ・ブレハッチのヴァイオリンソナタを聴いた。モーツアルト(17番)、ベートーヴェン(7番)、ドビュッシー、武満(悲歌)、フランクというプログラムは、いずれの曲もそれぞれの個性があって楽しかったのだが、聴く機会が少なかったベートーヴェンの7番の魅力を改めて感じて、いくつか録音も聴いてみたいと思った。初めて聴いたブレハッチのピアノは、丁々発止というよりも、多彩な音でヴァイオリンに応じるやや落ち着いたトーンに感じられた。樫本大進の演奏は、数日前のドイツ・カンマーフィルとの演奏に劣らず素晴らしかったと思う。本来であれば聴き応えのある演奏だったのだが、隣の人が鼻を患っているのか常に寝息のような音を盛大に奏でていたり、同じ方向から一度ならずアメの包みを剥がして食べる音がしたり、チラシを落とす人とそれに怒る人がいたり、携帯のバイブレーションが鳴ったり、、、といった雑音に囲まれた席で、演奏に集中できず、残念なコンサートになってしまった。

ドイツ・カンマーフィル

文京シビックホールでパーヴォ・ヤルヴィが指揮するドイツ・カンマーフィルハーモニーの演奏を聴いた。一曲目のロッシーニを感じさせるシューベルトのイタリア風序曲から、しなやかに伸縮する緻密で柔軟なネットが絶えず変化しながら音楽を紡ぎ出していくようなオーケストラ全体の一体感と、それを形作る個々の演奏者のエネルギーを感じた。二曲目のベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲は、ヒラリー・ハーンに代わってソリストを務めた樫本大進の演奏が素晴らしく、特に第一楽章のカデンツァは気迫のこもった名演だったと思う。三曲目のシューベルトの未完成では、二曲目までとは少し変わって、熟成が進んだシルキーな赤ワインの雰囲気に酔わされ、四曲目のモーツァルトの交響曲第31番「パリ」からはモーツァルトの音楽の生命力をもらい、アンコールに演奏されたシベリウスのアンダンテ・フェスティーヴォには北欧の光や空気を感じた。小規模な編成のオーケストラの魅力に改めて気付かされて(木管、特にクラリネットが素敵だった!)、オルフェウス室内管弦楽団の演奏も聴いてみたいなぁと思ったりした。文京区(文京アカデミー)の年に一度の目玉企画は、昨年のコンセルトヘボウの公演も素晴らしかったけれど、今年も記憶に残る素敵な音楽を楽しむ機会を(そこまで高くない価格で)提供してくれて、地元民としてはとても嬉しく、感謝している。

小石川植物園(秋)

1年を通して24節季毎(半月毎)に小石川植物園を散歩して写真を撮ってみようと思い立ってから早いもので9か月が経とうとしている。この間、様々な植物が花期を迎えて終える様子、木の葉が芽吹き色づき散っていく様子、蜘蛛がだんだん大きくなりやがていなくなる様子など、様々な変化に触れて植物園が身近に感じられるようになった。秋は、自分にとっては春以上にフォトジェニックで、シャッターを切る回数が増えたように感じる。紅葉が進むにつれてレンズは16mm(35mm換算の24㎜)の出番が多くなった。冬の植物園はどんな様子だろう。雪が降る日もあるかもしれない。今から楽しみである。(写真はこちら



写真の山

東京都写真美術館で「巨匠が撮った高峰秀子」、「アレックス・ソス 部屋についての部屋」、「日本の新進作家 vol.21 現在地のまなざし」を観た。「巨匠が撮った高峰秀子」は、写真作品を観るというよりも高峰秀子の仕事を振り返る機会になり、何本かの映画は観てみたいと思っている。「アレックス・ソス 部屋についての部屋」からは、人を撮ることとその人の身の回りの物を撮ることの関係について考える機会をもらった。「日本の新進作家 vol.21 現在地のまなざし」は、5人の作家のいずれの展示も面白かったのだけれど、出口を出たところに展示されていた原田裕規の「写真の山」が心に残った。一般家庭からゴミとして集められた大量の「行き場のない写真」の中から数百枚程度をテーブルの上に無造作に置いて「展示」した「写真の山」は、一枚一枚手に取って眺めてみると、その大半は数十年前の見知らぬ日本人の結婚式だったり、家族旅行だったり、同窓会だったり、日常生活だったり、9割以上は人を写した写真だった。フィルムを現像してプリントしていた時代の写真の在り方や、そうした写真が「行き場をなくす」までの役割や時間の長さ、そしてデジタル化がもたらした変化の大きさについても改めて考える機会をもらった。