響きの森クラシック・シリーズVol.84

文京シビックホールで横山奏が指揮する東フィルの「響きの森クラシック・シリーズVol.84」を聴いた。1曲目はソリストに中野りなを迎えたチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲で、中野りなの伸びやかで豊かな音色のヴァイオリンが素晴らしかった。オーケストラも、21歳のソリストを温かく見守りながら丁寧に応答してソリストの魅力を十二分に引き出しつつ、曲全体の魅力をバランスよく描き出す素敵な演奏だったと思う。この顔合わせの演奏をまた聴いてみたいなぁ、今度は何が良いだろう、シベリウスか、あるいはモーツアルトか、などと考えてしまった。アンコールのバッハのパルティータを挟んで、2曲目はチャイコフスキーの交響曲第5番。こちらも何度も聴いている曲なのだけれど、やはり横山湊と東フィルの演奏の個性は感じられて、何と言うか、自然の中で手間暇かけて育てて天日干しにしたお米をかまどで炊いたごはんのような、派手さはないかもしれないけれど、丁寧で心に沁みる美味しい音楽、といったところだろうか。たくさんの指揮者がいる中で、演奏家や聴衆に向けて個性を出していくことはやはり難しいことなのだろうけれど、自分はこの演奏は好きで、横山湊が指揮する他のオーケストラの演奏も是非聴いてみたいと思っている。アンコールに演奏されたチャイコフスキーの弦楽セレナーデのワルツには、また一味違った「踊る横山湊」の魅力の片鱗が感じられて、井上道義ファンとしては、この路線の音楽も聴いてみたいなぁ、と思ったりもしている。

啓蒙の海賊たち

デヴィド・グレーバー著、酒井隆史訳「啓蒙の海賊たち」(岩波書店)を読んだ。積読になっているグレーバーの「負債論」を読むつもりでいるのだけれど、出張先の街の書店を何か購入しようと歩き回って、結局、この本と隣に積まれていた中村達の「君たちの記念碑はどこにある?-カリブ海の〈記憶の詩学〉」を購入してしまい、この本から読むことになった。(ちなみに、「君たちの記念碑はどこにある?」は次女が先に読み始めたようだ。)おおまかな要約が訳者によるあとがき(168₋170頁)に書かれているのだけれど、その直後に翻訳者が書いているように「と、このように圧縮してはみたものの、本書をお読みになればわかるように、筋書きはけっして一筆書きですむようなものではない。まるでこの『大きな島』の歴史そのもののように、多種多様なエスニシティと信仰、コスモロジー、慣習が入り乱れ合い、いたるところで『分裂生成』を惹き起こしている」といった具合である。翻訳者のあとがきには「執筆しながらも、そこから生まれたあたらしいアイデアを展開したくて、目の焦点ははやくも前方にむいたままあわただしく世にだしたという印象が、独特の混沌に彩られた本書にもった印象である」とも書かれている。何層にも積み重なる多様な移民の歴史、そこに現れた海賊バッカニアと欧米・奴隷貿易の複雑な激流が入り混じる17世紀末から18世紀初頭のマダカスカル北東部をラフティングするように勢いにまかせて読んでしまい、どこまで頭にはいったか心許ないのだけれど、この本の前に読んだ熊野純彦の「差異と隔たり」とはまったく異なる読書になって、それもまた面白かった。この本のあとは、地域や時代は異なれどこの本と同様に海賊の子供を描いた飯嶋和一の「南海王国記」が来週発売されることを心待ちにしている。

9つのプロフィール 1935→2025

東京都現代美術館で開館30周年記念MOTコレクション「9つのプロフィール 1935→2025」を観た。1935年から2025年までの90年間を10年ごとの9つの期間に区切って、多くの作家の300点近い作品を展示する企画で、ひとりの作家の作品をクロノロジカルに観る展示以上に、時代の移り変わりや時代との関わり、あるいは前の世代を乗り越えようとする動きを意識しながら作品と向き合う時間になった。特に足を止めた時間が長かった作品は、阿部合成「顔」(1937年の日本人が何を思っていたかを強烈に意識させられる)、向井潤吉「影(蘇州上空)」(昨年訪れた蘇州の街を思い出しながら)、田中佐一郎「赤田張野営」(戦場に連れて来られた馬と兵士の間に何ほどの違いがあるだろう)、香月泰男「昼」(香月泰男の人生を思いながら)、鶴岡政男「重い手」(掌は上を向いていて)、李禹煥「線より」(もの派が生まれた時代の流れを思いながら)、草間彌生「自殺した私」(草間彌生に出会えたような気がして)、杉本博司「Polar Bear」(重さと軽さと美しさ)、辰野登恵子「Untitled」(過去に何点か観た90年代以降の大きな油彩はどれも素敵だなぁと思った)といったところだろうか。1935年から2025年の90年間は、今年90歳を迎える自分の父親の人生と重なり合う。広島県府中市に生まれ、両親を亡くしてから東京に出てきて夜学に通い、母と結婚し、3人の子供を育てた父は、美術とはほとんど縁がなかったと思うけれど、展示されていた作品が互いに響き合うように、自分の中では、父の人生に関する記憶も作品と響き合うように感じられたことが面白かった。

熊野純彦「差異と隔たり」

三女から大切にしている本だと何度か聞いたことがあり、先日もこの本が会話に出たこともあって、熊野純彦著「差異と隔たり」(岩波書店)を読んだ。3部構成となっていて、それぞれの部に3つの章があり、それぞれの章は初出が異なることもあってやや独立している。あとがきによれば、「本書にもおそらく、いくとおりかの文体が入りまじっていることだろう」とのことで、「困ったことであるのかもしれないけれど、文体がかたまってしまうことをどこかでとても怖れている。確定された思考のスタイルは、世界をひといろに染めてしまうような気がしているのかもしれない」と書かれている。そんなこともあってか、全体として、「所有」「時間」「言語」という各部のトピックについて、統一性をもって普遍的な真理を説明しようという野心を感じるというよりも、熊野純彦の視点から考えたことを、熊野純彦のことばをたどりながら考える経験を味わうといった趣の読書だったように思う。読みながら、興味をおぼえた文章を書き写していたのだけれど、あらためて書き写した文章を読み返してみても、何か結論に向けて収斂していくような印象はない。たとえば、「ひとがなにものかを所有するとき、そのなにものかが人間じしんを所有している」、「私が生命を所有するのではない。生命が、私を所有する」、「差異と隔たりによって隔絶した過去が、にもかかわらず私と関係し、私の現在のうちに食いこんでいる」、「他者の死こそが、取りもどしようもなく、抹消不能で、けっして現在に回収されることのない、真の〈外傷〉となる」、「沈黙することの暴力は、できごとを忘却し、抹消してしまうことにおいて、物語ることの暴力を凌駕する」、「『言語は記号である』という語りかたが、言語経験の基礎的なかたちを覆いかくすものであることを、まず確認しておかなければならない」、「一定の発話に、かぎりなく多様な応答がそのつど接続可能であることが、ことばを現になりたたせる」、「他者は私に呼びかけることばにおいて、私からの絶対的な隔たりをしめす。けれども同時に、他者の呼びかけが聞きとられてしまうことは、他者が、果てのない隔たりにもかかわらず、あるいは、その遥かな隔たりのゆえに、私にかかわっていることをあかしつづける」などなど。
自分が若かった頃の読書は、何かしらの真実を求めたい気持ちに動機づけられていた面があったように思えるのだけれど、「真実」は人によって、あるいはその人の中においてさえ多様であって、そんな多様性を味わうことが読書の悦びになってきたような気もする。この本が出版された年に生まれて大学生になった三女が、この本にどんな魅力を感じているのか、わたしから遥かに隔てられた他者である熊野純彦が、読者であるわたしに向けて〈語ること〉の知的でロマンティクな姿に心を動かされているのか。こう書いていると、何だか若さが羨ましくなってきたりもする。