雨とベンツと国道と私

東京芸術劇場シアターイーストでモダンスイマーズの「雨とベンツと国道と私」(作・演出:蓬莱竜太)を観た。東京芸術劇場のHPで3000円で観られる良さそうな芝居があることに気付き、何の予備知識もなくチケットを購入し、蓬莱竜太が数年前にNHKのプレミアムシアターで観た「まほろば」の書き手であることも観劇の前日に知った。夕方まで激しい雨が降っていたのに、劇場は満席で、自分のように一人で来ている客が多く、世代も性別もばらばらで、こういう観客を呼べるというのは素敵なことだよな、と芝居が始まる前から思ったりした。芝居は、いっぱいいっぱいで精一杯生きている人たちを、優しい目線で、楽しく、深く描いていて、8人のキャストのうち3人は女性なのだけれど、全体的にどことなく「男子っぽさ」を、壊れていくY染色体を抱えた不完全な男子の滑稽さと愛おしさを感じた。男性キャストだけでなく、主演の山中志歩の演技からくる印象もあったかもしれないし(「五味栞の恋」のシーンは男子の初恋っぽいテイストがあって、特に雨のシーンは好きだ。)、映画を巡る芝居であったこともあったかもしれない(好きな映画として名前があがっていた「薔薇の名前」、「未来世紀ブラジル」、「マッドマックス」、「ギルバート・グレイプ」、「ベティ・ブルー」とか、同世代(の特に男子)を感じる。)。パワハラやSNSやコロナなど、最近の話題や問題もあるのだけれど、最後に心に残るのはそれぞれに自分の全部を乗っけて走っている大人たちの姿で、その余韻がこの芝居の記憶となっている。
それにしても全席自由席3000円は、観客のお財布に優しくてありがたいというだけでなく、値段が高ければ良いものだと安易に考えがちな世の中に静かに物申しているようで、じわっとかっこいい。

野反湖

早朝に自宅を出て8時30分頃に野反湖に着き、2時間少々で湖畔を一周した。レンゲツツジが満開に向かうところで、草木の若々しい緑や青い空や湖とのコントラストが美しかった。この時期の野反湖を訪れたのは初めてかもしれない。6月中旬でもまだ梅雨入り前で、10時頃までは青空が広がっていたが、その後は徐々に曇って来た。帰路は大滝の湯に立ち寄り、中之条から息子さんの運転で連れて来てもらったという90歳の老翁と湯の中で語り合い、湯畑の傍らでいつもの揚げ饅頭を食し、早めに草津を出た。

響きの森クラシック・シリーズVol.80

文京シビックホールで小林研一郎が指揮する東フィルの「響きの森クラシック・シリーズ Vol.80」を聴いた。一曲目は小林愛実をソリストに迎えたモーツァルトのピアノ協奏曲20番で、聴衆に向けて開かれていく華やかな音というよりも、良い意味で音楽に向けて閉じていく(深まっていく)集中力の高い音に聴こえた。アンコールの演奏(多分シューベルト?)も同様の印象で、NHKのクラシック倶楽部でショパンの前奏曲を聴いて心惹かれてから、この演奏を生音で聴いてみたいと思っていたのだが、今回の演奏を聴いてこの人が弾くベートヴェン、あるいはシューマンを聴いてみたいと思った。二曲目はスメタナの「わが祖国」から最初の4曲で、有名なヴルタヴァ(モルダウ)だけでなく、他の曲にもそれぞれの魅力があることを改めて感じさせられた。今回は数年前に傘寿を迎えた母と一緒に聴いたのだが、数年に一度しかコンサートに足を運ばない母も、コバケンの姿や小林愛実のピアノを心から楽しんでくれたようだった。アンコールのリクエストに応えてコバケンがピアノで弾いたダニーボーイを母と一緒に聴けたことも忘れられない思い出になった。

東京都交響楽団第1000回定期演奏会

サントリーホールでエリアフ・インバルが指揮する都響のブルックナー交響曲第9番を聴いた。都響の演奏には「緻密で明晰」なイメージがあるのだけれど、インバル・都響の演奏にはそれとは一味違った「香り」のニュアンスが感じられるような気がする。インバル・都響の一昨年の年末の第九を聴いた際のブログを読み返してみると、「フレーズの柔らかな語尾に音楽を慈しみつつ育んでいる余韻が感じ取れるような、五月のように若々しく香しい演奏」「音楽の幸福感」といった感想が書かれていて、同じ第九でもブルックナーは曲の表情が違うとはいえ、やはり自分には何かしら「香り」のようなものが感じられて、それが充実した「音楽の幸福感」をもたらしてくれるのかもしれない。今回のコンサートでは、第1楽章から第3楽章(ノヴァーク版)に加えて、SPCM版の第4楽章が演奏された。我が家にあるこの曲のCDにはいずれも第4楽章がなく、どことなく中途半端な印象もあってあまり聴いていなかったのだが、今回初めて第4楽章を聴いてみて、その復元に向けた尽力に感謝し、第4楽章まで完成した曲の魅力を感じつつも、「ブルックナーはどんな第4楽章を思い描いていたのだろう」と思いを馳せながら第3楽章までで終えるという選択もあり得るなぁ、などと身勝手な感想を持ったりもした。

広重ぶるう

NHKの特集ドラマ「広重ぶるう」を観た。奥さんと「不適切にもほどがある!」(TBS)を各話3回は一緒に観た流れで、阿部サダオが主役の広重を演じた「広重ぶるう」を録画したのだが、こちらは自分ひとりで何となく3回も観てしまった。長塚京三(北斎)や吹越満(国貞)といった好きな俳優が出ていることや、広重を支える仕事を気丈に成し遂げた芯の強い女房を演じた優香(加代)の美しさ、独特の個性的な存在感で画面を引き締めて見せ場を何度も作った髙嶋政伸(保永堂)の演技の力、檀ふみの落ち着いたナレーション、ギターやアコーディオンが響きが優しく軽く心地よい音楽など、作品の魅力はいろいろなところにあるのだけれど、脚本の魅力も大きかったと思う。気になって原作も読んでみたのだが、やはり錦絵と同様に大衆芸能であるテレビドラマとしての「広重ぶるう」には、原作とはまた別の趣きがあって、脚本家の思いを乗せたような、例えばこんな台詞が刺さるのである。「俺は俺が描きてえ富士を描く。俺が見てえ富士だ。俺のために描いてんだよ」(北斎)、「人がどう思おうとどうでもいい。誰も俺の絵なんぞ見なくても構わねえ。俺は俺が満足する絵をまだ…百まで生きても時が足りねえ…いいか、お前(広重)も版元の言いなりになってケツの毛まで抜かれるんじゃねえぞ。酔っぱらっている間にすぐにジジイだ」(北斎)、「売れるものを描くのが仕事ですからね。私ら絵師は職人です。好きなものなんて考えてもしょうがない。絵で食べていくというのはそういうことでございましょう」(国貞)、「(広重は)倹しく暮らす詰まらぬお人ゆえ、描ける絵もありましょう。絵を買うのも倹しく暮らす詰まらぬ民でございますれば」(保永堂)、「(広重は)火消あがりだからね。己に才がなきゃ人の才を借りる。人に任せられる。確かに正直だ。火消ってのは時がないなかで幾人も人を使って仕事をするでしょ。一人じゃ火は消せませんからね」(保永堂)、「温かい目で物を見るから広重の錦絵には人の情けが見える。見る人の心も動くんでございましょう」(保永堂)、「(広重)師匠は甘いお人だからご自分のためにはそんなもの(描きたい絵)一生見つからないかもしれませんな」(保永堂)などなど。これ以外にもまだまだたくさんあるのだが、主役ではなく、脇役に味のある台詞を語らせるのである。国貞は「錦絵はどんなに売れても飽きたら紙屑だ」といい、広重もこれを肯んじて同時代の人たちのために錦絵を描くことに「描きたい絵」を見付けたようなのだが、広重や国貞の絵が北斎の絵と同様に今でも世界中で愛されているように、大衆芸能の寿命はそんなに短いものではないとも思うのだ。「不適切にもほどがある!」を観た奥さんは、第三話を見る前から「毎度おさわがせします」(TBS、1985-1987)だよと言っていたし、自分もその頃は「親にはナイショで…」(TBS、1986)とか見ていたなぁと懐かしく思い出したりしたのである。