東京芸術劇場シアターイーストで演劇団体[関田育子]の『under take』を観た。ステージの床を1.5枚分取り除いて客席から奈落を見せて、両脇と正面の階段から役者が舞台と奈落を行き来し、舞台奥の2つの扉からはその奥のバックステージの廊下が覗き、舞台の床と壁面は黒く、一切物は置かれず、役者は普段着で演技するというシンプルな舞台設計だった。Family Affair的なエピソードがぽつんぽつんを置かれたような脚本で、芝居は、さほど面白くもないのだけれど、つまらなくはない。何でつまらなくないのかなぁと思いながら観ていたのだけれど、やはり「間」かなぁ、役者と役者の物理的な「間」や、動きと動きの時間的な「間」の味わいが、開放的な舞台設定を相俟って、少し劇場の重力が軽くなったような、ステージが3センチほど浮いているような、そんな印象を受けた。上演後のアフタートークでは、「物語」との付かず離れずの「距離」を測りつつ芝居を組み立てたという話しがあったり、芝居にしかできない「映像的」あるいは「マンガ的」な表現といったコメントがあったりして、自分の印象もそんなところからきているのかもしれないと感じたりもした。
チェコ・フィル東京公演
文京シビックホールでセミヨン・ビシュコフが指揮するチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏を聴いた。1曲目はスメタナのわが祖国からモルダウで、昨年聴いたコバケン/東フィルや高関/TCPOの演奏とはまた違って、水が小さな渦や大きな渦を巻きながら流れる様子が手に取れるような、やはり十八番のレパートリーとして練り上げられた演奏という印象だった。2曲目はチョ・ソンジンをソリストに迎えたラヴェルのピアノ協奏曲で、久しぶりに聴いたチョのピアノはやはり音色もリズム感も表現も素晴らしかった。何故か、第1楽章が始まってすぐから、15年前に聴いたアルゲリッチと新日本フィルの演奏が思い出されてきて、今年7月に上原彩子と東京交響楽団の演奏を聴いたときにはすっかり忘れてしまったと思っていた記憶が、チョとチェコフィルの演奏で呼び戻されたのか、演奏スタイルは違うし、むしろチョとチェコフィルの演奏にはやや希薄に感じられた、アルゲリッチがオーケストラと対話する魅力に思いを馳せたりしていたのだけれど、ちょっと不思議な気分だった。チェコフィルは1曲目や3曲目とほぼ変わらない全員参加型の大編成で、チョのピアノとの相性は、良いとは感じられなかったのだけれど、どちらかというとピアノをメインに楽しんだかもしれない。チョがアンコールに弾いたショパンのワルツ第7番(丁寧に磨かれた素敵な演奏だった。)と休憩を挟んだ後の3曲目はチャイコフスキーの交響曲第5番で、ピシリと統率が取れた演奏というよりも、団員ひとりひとりが奏でる音楽をひとつに纏めるのだから多少の雑味が生じるのは当たり前でそれが味わい、といった雰囲気の、切れのある淡麗辛口というよりは、複雑な芳醇旨口の演奏だったと思う。アンコールのカヴァレリア・ルスティカーナの間奏曲で、全ての弦がユニゾンで演奏する様子からは、そんなチェコフィルの個性と魅力がダイレクトに感じられたし、アンコール2曲目のドヴォルザークのスラヴ舞曲第1番では、そうしたオケのエンタメ精神が存分に発揮されていたと思う。ネットで話題になっていたチェコフィルのアジアツアーPR動画を見ていたからかもしれないけれど、振り返ってみると、どちらかというと真面目な日本のオケにはあまり感じられない、実力はあろつつも大らかで気取らないチェコフィルの魅力が詰まったプログラムであり演奏だったように思える。PR動画の大阪人ではないけれど、チェコフィルが身近になって好きになるような、そんな素敵なコンサートだったと思う。
東京シティ・フィル第382回定期演奏会
東京オペラシティで鈴木秀美が指揮するTCPOの第382回定期演奏会を聴いた。1曲目はシューマンのマンフレッド序曲、2曲目はソリストに山崎伸子を迎えたシューマンのチェロ協奏曲、そして山崎伸子とTCPOのチェリストによるアンコール鳥の歌と休憩を挟んで、3曲目はベートーヴェンの交響曲第6番田園、最後のアンコールにシューマンのマンフレッド間奏曲というプログラムだった。鈴木秀美が指揮するTCPOの演奏は、昨年6月の371回定期演奏会以来だけれど、他の指揮者とTCPOの演奏とは一味違う軽さや香しさが感じられて、全ての曲を通じてこの個性と魅力が印象的だった。協奏曲やアンコールでの山崎伸子のチェロも素晴らしく、桐朋の高校や大学で共にチェロを学んだ頃から50年を超える付き合いという鈴木秀美と山崎伸子の共演を聴き、二人が並んで満場の拍手を受ける姿を見られたことも嬉しかった。
記憶をひらく 記憶をつむぐ
東京国立近代美術館で企画展「記憶をひらく 記憶をつむぐ」を観た。1937年の盧溝橋事件により日中戦争が始まってから1945年8月の敗戦までの期間に制作された作品や作品を掲載したメディア等を中心とした展示で、当時の画家やメディアが戦争とどう向き合ったかを学び考える良い機会となったし、戦争に限らず時代の流れや権力の意志とアートやメディアの関係について考えさせられることになった。その中で、特に気になった作品のひとつは猪熊弦一郎の「長江埠の子供達」で、戦後に制作された上野駅の壁画に繋がる趣の作品なのだけれど、作家の個性が強く感じられる作品で、当時の中国に文化視察として派遣されて創作した作品とは思えないその雰囲気と存在感にはっとさせられた。もうひとつは、やはり藤田嗣治の作品で、今回の展覧会には大作が5点展示されていた。20代後半から40代前半をパリで過ごし、エコール・ド・パリの画家として大きな成功を収め、3人のフランス人と結婚を重ねた藤田と、森鴎外の後を継いで陸軍軍医のトップを務めた父や陸軍大学校の教授を務めた実兄を持つ藤田の間に葛藤がなかったはずはなく、今回の展示にもあった藤田が陸軍美術協会理事長として書いた文章からは、確かに日本の国策を支援した藤田の姿勢が明らかに読み取れるのだけれど、その作品からは、単純に国策を支援したという文脈に回収することができないものが感じられるのである。例えば、ノモンハンで戦死した戦友を弔いたいという依頼を受けて制作された「哈爾哈河畔之戦闘」の永遠に続くかと思える青空、白い雲、そして緩やかな弧を描く広大な地平線と、戦車に向かう日本兵の小さな姿を眺めるとき、あるいは「アッツ島玉砕」や「サイパン島同胞臣節を全うす」の濃厚な人間の死の表現に触れるとき、そこにある藤田の無言の声に耳を傾けたくなる。猪熊弦一郎も藤田嗣治も、戦後は日本を離れて国外で暮らした画家であり、そんなことからも、日本の戦後というものについて考えてみたくなる。
トリオ・アコード
東京文化会館小ホールでトリオ・アコード(Vn 白井圭、Vc 門脇大樹、Pf 津田裕也)のメンデルスゾーンを聴いた。フェリックスの姉、ファニー・メンデルスゾーンのピアノ三重奏曲で始まり、フェリックス・メンデルスゾーンのピアノ三重奏曲第1番と第2番、アンコールに「歌の翼に」というメンデルスゾーン尽くしのプログラムで、どの曲も聴き応えがあったのだけれども(聴く機会が少なかったピアノ三重奏曲第2番もいい曲だなぁと思った)、その中でもメントリ(ピアノ三重奏曲第1番)の第1楽章(から第2楽章)は圧巻の演奏だったと思う。今年の春祭でシューマンのピアノ三重奏曲第2番を聴いた時にも感じたことだけれども、それぞれの楽器を演奏する3人の個性は、共通の土台を持ちつつも、当然のことながらそれぞれに異なるような気がしていて、粗っぽく例えれば、色と艶の白井のヴァイオリン、誠と基の門脇のチェロ、理と知の津田のピアノ、あるいは、感性の白井、身体性の門脇、理性の津田といった感じだろうか。でも、20年以上も一緒に演奏してきているというこの3人が学生時代の仲間うちの距離感で密にスクラムを組んで盛り上がっていく時の完成度の高さには否応なく心を揺さぶられる。この3人の演奏を10年後、20年後も聴き続けていきたいという気持ちにさせられるのである。例えば20年後、トリオ・アコードはどんな演奏を聴かせてくれるのだろう。緻密な完成度の高さと迫力を味わわせてくれる一方で、3人がちょっと解けて遊びのあるような演奏も聞かせてくれたら、さらなる魅力が出てきそうな気もする。トリオ・アコードの自主企画的コンサートは初めてかもしれないという白井のトークもあったけれど、これからもますますご活躍されて、定期的にコンサートを開いてくれたら嬉しいと思っている。会場で購入したメンデルスゾーンのCDも早速聴いてみたけれど、コンサートの余韻が感じられて、こちらも素晴らしかった。