長島愛生園

備前焼の里で一日を過ごすことも考えたのだが、車で30分ほどの距離にあることを知り、長島愛生園を訪ねることにした(往路は八反峠の旧道を通ったが、かなり狭隘な難路だった。)。事前に予約をした歴史館でハンセン病や長島愛生園に関する展示や資料を見学し、島で亡くなった患者や職員の方々の遺骨が納められている万霊山を訪れ、島内をしばらく散策すると半日が過ぎていた。訪問に前後して神谷美恵子のエッセイ集「島の診療記録から」(平凡社)を読み進めていたこともあり、病や生き死にについて思いを巡らせることも多かったのだが、島を訪れた際に頭を占めていたのは多数者と少数者の軋轢に関わる諸々の考えごとだったかもしれない。かつて自宅の近くにハンセン病患者を療養した東京市立養育院があったことや、毎年のように足を運ぶ野反湖の近くに栗生楽泉園があることもあって、ハンセン病は学びが足りていない気がかりな事柄のひとつなのだが、東京に戻ってから、ハンセン病患者療養施設の職員には鹿児島の田舎や島の人たちが多かったらしいと妻に話したところ、奄美大島の親戚が離婚した後で瀬戸内か四国あたりの施設で職員として働いて一生を終えたらしいという話を聞いた。

長島愛生園歴史館(旧事務本館)の前から海を眺めて