鶴見俊輔

今年の誕生日に現代思想の鶴見俊輔特集号(2015年10月臨時増刊)をプレゼントしてくれた三女が、先月25日に「今日が鶴見俊輔の100歳の誕生日らしいよ」と教えてくれた。某出版社のTwitterで知ったらしい。その後、この特集号の中から幾つかのエッセイや対談、論文を読み、「柳宗悦」、「太夫才蔵伝」、「アメノウズメ伝」(いずれも平凡社)を読み、「らんだむ・りいだあ」(潮出版社)の中からいくつかの文章を読んだ。
鶴見俊輔を初めて知ったのは、高橋源一郎が新聞に寄稿した記事だった。切り抜いて何度か読み返した記憶がある。かなり昔の記事でどんな内容だったか思い出せなかったが、確か穂村弘を初めて知ったのも同じ記事だったはずだと思い出してネットで調べてみると、どうやら1991年4月の朝日新聞の記事らしい。図書館に行って縮刷版を調べてみると、1991年4月24-25日の夕刊に掲載された文芸時評だった。「鶴見俊輔の文章は誰の書いたものよりわかりやすい。それは考え尽くしたあげくにでてくる思考の上澄みの『透明さ』のようなものだ。だが、それだけでは鶴見の魅力を理解することはできない。・・・彼がやろうとしたのは、著作集のコピーを引用するなら、『もろい部分に立て』ということだった。『もろい部分』ーそれは、言葉が生成する場所である。そして、言葉が生成するその瞬間に対して誠実なものであるなら、彼はそのすべてを理解しようとした。相手の『もろい部分』に自分の『もろい部分』をぶつけることによってである。」そんな高橋源一郎の文章を30年ぶりに読んで、あの頃に心を動かされた記憶が立ち戻り、また、長い間すっかり忘れていたとしても、この文章から受け取ったものが自分の中で生き続けてきたようにも思えて、嬉しかった。
ここ3年くらいの間に「鶴見俊輔コレクション1~4」(河出文庫)、「限界芸術論」(ちくま学芸文庫)、「戦時期日本の精神史」・「戦後日本の大衆文化史」(岩波現代文庫)などの鶴見俊輔の著作を読んできたのだが、今回、高橋源一郎の記事で紹介されていた「最初の本『団子串助』再読」を読む機会を得た。「われわれにとって、もっと大きい思想的影響をあたえるものは、人生の初期に出あう出来事と著作だろう。そういう視点からみれば、私にとっては、宮尾しげをの『団子串助漫遊記』は、その後の私には大きな影響をあたえたソローやハヴェロック・エリスやウィリアム・ジェイムズの著作よりも切実である」と51歳の鶴見俊輔は書いた。数年前に50歳を過ぎた自分も、鶴見俊輔を見倣う器量があるはずもないのだけれど、今後の生き方を考えるために、人生の初期を振り返って自分が何を授かってきたのか思い起こしてみようかと、そんな気持ちになった。

岩波ホール

今年7月29日をもって閉館する岩波ホールで、最後に掛かる映画となった「歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡」(ヴェルナー・ヘルツォーク監督)を観てきた。
岩波ホールに足を運んだ回数は多くない。映画をある程度集中的に観た80年代終わりの2年間に「ファニーとアレクサンデル」、「ローザ・ルクセンブルク」、「芙蓉鎮」、「TOMORROW/明日」、「八月の鯨」といった映画を観に出かけた記憶があるが、その後は4、5回しか足を運んでいないと思う。映画を観る本数が減ったこともあるが、ビデオやDVDで映画を観られるようになった影響も大きい。例えば黒木和雄や小栗耕平の映画は、DVDを借りたり買ったりして観たが、岩波ホールでは観ていない。岩波ホールが日本に紹介してくれた「大樹のうた」、「惑星ソラリス」、「旅芸人の記録」といった古い映画も、名画座に観に行き、その後DVDを購入して繰り返して観た映画だが、岩波ホールでは観ていない。
映画館通いに明け暮れた80年代末には、三軒茶屋に3軒の名画座があり、五反田東映、大井武蔵野館、三鷹オスカー、吉祥寺バウスシアター、飯田橋佳作座、大塚名画座、三百人劇場といった今はない名画座にも良く出かけて行って映画を観た。有楽町スバル座が閉館した時にも寂しさを感じたが、岩波ホールの閉館には、時代の移り変わりの無常さを改めて認識させられる。
岩波ホールに感謝したいことは数多くあるのに、何の恩返しもできずに閉館を見守ることしかできないのだが、そのことを確認する意味も込めて、ここにお礼を記しておきたいと思う。

野反湖・白砂山

月に一度は拝見している「野反湖うらやまガイド」のブログを見て、ノゾリキスゲが満開に近いことを知り、野反湖に行ってきた。この時期の野反湖に来るのは数年ぶりかと思うが、一斉に花が開いて湖畔が黄色く染まる風景の祝福感に心が洗われる。

今回の目的は白砂山に登ること。8時に登山口を出発し、稜線に出た時には山頂が青空にくっきりと映える晴天だったのだが、11時に山頂に着いたときには南側の視界は雲に遮られていた。群馬、長野、新潟の3県境まで足を延ばしてから山頂に戻り、軽い昼食を取ってから帰路についたのだが、緩い下り坂で足首を捻ってしまい、八間山は回らずに2時間30分ほどかけて下山した。

野反湖には2、30回は来ているはずだが、山登りは長女と次女が小学校低学年だった頃の記憶しかない。そういえばあの時もノゾリキスゲが満開だったと思い、昔の写真を確かめてみると、2008年7月20-21日にキャンプに来て、三壁山、高沢山、カモシカ平、エビ山を回っていた。子供が小さかった頃は帰宅途中で尻焼温泉に立ち寄ったのだが、この日は八ッ場ダムに沈む前の川原湯温泉の王湯に立ち寄った写真があった。偶然だが今回も、白砂山の登山を終えたあと、八ッ場ダムの脇に造成された新しい川原湯温泉の王湯に初めて立ち寄った。景色の良い露天風呂から水位の下がったダム湖を見下ろし、王湯の受付で地元の人達の何気ない日常会話を耳にし、誰も歩いていない区画の整った夕方の温泉街を歩きながら、街と人と社会と時間の在りようについて思いを巡らせた。

クラウス・マケラ

サントリーホールでクラウス・マケラ指揮/東京都交響楽団のショスタコーヴィチ交響曲第7番「レニングラード」を聴いた。この曲を特集したNHKの番組を観た妻がこの曲を聴きたくて出かけたコンサートだったのだが、妻はこの曲以上にクラウス・マケラと都響のハーモニーに心を奪われたようだった。確かに音楽は美しかったし、完璧な経歴とルックスのクラウス・マケラは正にクラシック界の貴公子で、(プログラムから想像するよりも)客席には女性や若い人が多く、ファン層の拡大に貢献してくれているように感じた。自分は、というと、いまひとつこの曲に没入することができなかった。音楽は音楽として楽しむべきなのだろうが、ロシアによるウクライナ侵攻が進む最中にこの曲を演奏することにはそれなりの意味があるはずなのだが、と考えてしまったり、この曲の中に組織や理念や構造ではなくパーソナルな視線を、個人に根差した私的な抵抗の視線を自分が見出せなかったからかもしれない。最後の繰り返す四音を演奏する古川展生の気持ちの入った姿を見つめながら、優れた演奏ではなくとも、今日とは違う「レニングラード」もあり得たのではないかと感じていた。できれば今回は7月1日のマーラーのプログラムを聴きたかったと思うのだが、チケットは完売、本日10時発売の当日券も1分で売り切れたらしい、と果敢にトライした妻から連絡があった。

2022年6月は50キロ+Bike

2022年6月の月間走行距離は50キロだった。今月はランニングに加えて、近所のショップでバイクを整備してもらい、数年ぶりにバイクに乗ったのだが、寄る年波と増える体重には到底勝てるはずもなく、奥武蔵グリーンラインの尾根道に出る手前の激坂で撃沈し、悄悄と山を下りてしまったので、大した運動にはなっていない。という次第で、先月に引き続きスローペースの1か月となってしまった。史上最速で6月末に梅雨が明け、来月は酷暑となりそうで、月間走行距離も心許ないが、スピードハイクやバイクを取り混ぜつつ、秋頃のハーフマラソンを目標に身体を作っていきたいと思う。