三女から大切にしている本だと何度か聞いたことがあり、先日もこの本が会話に出たこともあって、熊野純彦著「差異と隔たり」(岩波書店)を読んだ。3部構成となっていて、それぞれの部に3つの章があり、それぞれの章は初出が異なることもあってやや独立している。あとがきによれば、「本書にもおそらく、いくとおりかの文体が入りまじっていることだろう」とのことで、「困ったことであるのかもしれないけれど、文体がかたまってしまうことをどこかでとても怖れている。確定された思考のスタイルは、世界をひといろに染めてしまうような気がしているのかもしれない」と書かれている。そんなこともあってか、全体として、「所有」「時間」「言語」という各部のトピックについて、統一性をもって普遍的な真理を説明しようという野心を感じるというよりも、熊野純彦の視点から考えたことを、熊野純彦のことばをたどりながら考える経験を味わうといった趣の読書だったように思う。読みながら、興味をおぼえた文章を書き写していたのだけれど、あらためて書き写した文章を読み返してみても、何か結論に向けて収斂していくような印象はない。たとえば、「ひとがなにものかを所有するとき、そのなにものかが人間じしんを所有している」、「私が生命を所有するのではない。生命が、私を所有する」、「差異と隔たりによって隔絶した過去が、にもかかわらず私と関係し、私の現在のうちに食いこんでいる」、「他者の死こそが、取りもどしようもなく、抹消不能で、けっして現在に回収されることのない、真の〈外傷〉となる」、「沈黙することの暴力は、できごとを忘却し、抹消してしまうことにおいて、物語ることの暴力を凌駕する」、「『言語は記号である』という語りかたが、言語経験の基礎的なかたちを覆いかくすものであることを、まず確認しておかなければならない」、「一定の発話に、かぎりなく多様な応答がそのつど接続可能であることが、ことばを現になりたたせる」、「他者は私に呼びかけることばにおいて、私からの絶対的な隔たりをしめす。けれども同時に、他者の呼びかけが聞きとられてしまうことは、他者が、果てのない隔たりにもかかわらず、あるいは、その遥かな隔たりのゆえに、私にかかわっていることをあかしつづける」などなど。
自分が若かった頃の読書は、何かしらの真実を求めたい気持ちに動機づけられていた面があったように思えるのだけれど、「真実」は人によって、あるいはその人の中においてさえ多様であって、そんな多様性を味わうことが読書の悦びになってきたような気もする。この本が出版された年に生まれて大学生になった三女が、この本にどんな魅力を感じているのか、わたしから遥かに隔てられた他者である熊野純彦が、読者であるわたしに向けて〈語ること〉の知的でロマンティクな姿に心を動かされているのか。こう書いていると、何だか若さが羨ましくなってきたりもする。