タルコフスキー・映像のポエジア

アンドレイ・タルコフスキー著「映像のポエジア」(鴻 英良訳、キネマ旬報社)を読んだ。NHKの「Last Days 坂本龍一 最後の日々」に映された坂本龍一の病室のテーブルにこの本があり、35年ぶりに再読した。20歳の頃、タルコフスキーの何本かの映画は何度か映画館に通って繰り返し観ていて、千石にあった三百人劇場の特集上映に通ったりもしていたのだけれど、この本を読んでも分からないことばかりだったのではないかと思う。タルコフスキーの享年を超えた歳になってから読んでみても、共感するところや、違和感を覚えるところもありつつ、分からないところが多い。丁寧な日本語訳から全く分からないロシア語での思考をイメージしつつゆっくりと読むと、イメージが湧いてくるような気がする箇所もあるのだけれど。とはいえ、分からないものの持つ気配や雰囲気を感じようと努力することも、貴重な体験だろう。この本を読みながら、自宅にあるディスクでタルコフスキーの8本の映画を古い方から順番に観ていった。よく言われるようにタルコフスキーの映画も「分からない」のだけれども、特に後半の4本は、何故だか理由は分からないままに、観ていて鳥肌が立つのである。ラスト近くの、「鏡」の家族が草原を下りてくるシーン、「ストーカー」の家族が水辺を歩くシーン、「ノスタルジア」の熱い水をわたるシーン、「サクリファイス」のマリアが自転車で立ち去っていくシーン、他にも気が付くと知らぬ間に深く動かされているシーンがいくつもある。詩というのはこういうものなのだろう、と感じさせてくれる大切な映画たちである。
余談だが、栞にしていたようで、この本に「存在の耐えられない軽さ」の前売券が挟まっていた。丸の内ルーブルに観に行って、タルコフスキーへのオマージュを感じた記憶がある。わが家の子供達もこの映画は観ていて、原作を読んだりもしているようなのだが、そのうちにタルコフスキーも観てもらいたいものだと思う。