中村達が書いた2冊、「私が諸島である—カリブ海思想入門」(書肆侃侃房)と「君たちの記念碑はどこにある?<カリブ海の記憶の詩学>」(柏書房)を読んだ。「私が諸島である」は、今まで知ることの少なかったカリブ海諸島の植民地支配の歴史を学びながら、人種や言語の違いによる差別や経済的格差を乗り越えようとした思想を共感を持って読み進めたのだけれど、そうした思想が顧みなかったフェミニズムやクィアの視点を論じた終盤の章を読むに至って、今まで頷きながら読み進めてきた自分がまったく見落としてきたものを突き付けられた思いがして、改めて自身の無理解や知ることの難しさに気付かされる貴重な読書体験となった。「君たちの記念碑」は、支配権力が記念碑を建てて顕彰する「歴史」からは排除される「記憶の詩学」、それは口承であり、文学であり、カリプソであり、中村達があとがきで「本書を通して紹介してきたカリブ海作家たちは、それぞれが提出した記憶の詩学の結晶において、風景に刻まれた記憶を救い上げる独特なヴィジョンを表現している。私はそのようなヴィジョンを通して描かれるカリブ海の記憶を、『地理』(geography)と『記憶』(memory)を掛け合わせて、『地憶』(geomemory)と呼びたい」と書いているように、それはカリブ海の風景かもしれない。「君たちの記念碑」は、様々な時代の様々な場面におけるカリブ海の「地憶」に、記念碑を建てるやり方ではなく、様々な光をあてる本だったように思える。この2冊を読んでいる間に観たインド映画「私たちが光と想うすべて」が「私が諸島である」と響き合うように感じたことは、以前のブログにも書いたところだし、これ以外にも、例えば、先日東京都美術館で観た瀬尾夏美の作品で、「(東日本大震災の翌年に移住した陸前高田で)被災した町跡を毎日散歩し、スケッチを描き、写真を撮った。風景は途方もなく長い時間を抱えている」、「ぼくの暮らしているまちの下には、お父さんとお母さんが育ったまちがある」といった言葉と出会ったときにも、やはり響き合うものを感じた。「私が諸島である」がサントリー学芸賞を受賞した際の選評で、熊野純彦は「カリブ海でも独創的な思想が育まれて、世界を読み、世界を読みかえ、世界をつくりかえようとしている。それはカリブの文化と思想の『クレオール』性を刻みこまれ、そのクレオール性を、むしろ利点ともしてゆく思想である。その思想はまたどこかに到達しようとする思考の暴力性をまぬがれ、他者を『標的』とすることなく、むしろ他者を抱きとめ、他者と共にカリブの海に浮かび、潮の干満に揺られて海の只中にたゆたいながら、他者とたがいに手を取りあうことを可能とする思考である。」と書いている。カリブ海の苛烈な歴史を思うと、「他者とたがいに手を取りあうこと」の難しさを感じざるを得ないのだけれど、そうした厳しい場所で鍛えられ育まれてきたカリブ海の思想や文化に触れる機会をくれた中村達の2冊に感謝している。