私たちが光と想うすべて

新宿シネマカリテで「私たちが光と想うすべて」を観た。昨年のカンヌ映画祭でグランプリを受賞したこの作品の映画評を新聞で読んで気になっていたこともあり、久しぶりに映画館に足を運んだのだが、やはり世代や性別も異なる様々な人たちと同じ場所で映画を観るという映画館体験はいいものだな、と思えた。この映画を観に来る人は映画好きかインテリだろうと言われてしまえば、それはそうかもしれないのだけれど。そんなことを思ったのも、上映開始の1時間近く前に着いてしまった映画館のロビーで、昨年のサントリー学芸賞を受賞した中村達著「私が諸島である」(書肆侃侃房)を読み終えて(隣では「マルティネス」を撮ったメキシコのロレーナ・パディージャ監督のサイン会をやっていて、映画を観終えた方々が日本語だけでなく英語やスペイン語で監督にいろいろと話しかけているのが聴こえてきた)、カリブ海諸島における苛烈な植民地支配の人種差別、格差、言語、その残滓を乗り越えようとする思想の中でも、また欧米のフェミニズムからも置き去りにされた現地の女性や性的マイノリティの差別、そしてそれを乗り越えようとする現在進行形の思想といった、それぞれの場所の地理や歴史により異なる差別や格差の問題に思いを巡らせていたことや、そういった現在的な問題意識と、カンヌで賞を得たこの映画が響き合うことを感じていたからかもしれない。ひとりで画面と向き合う鑑賞と、見ず知らずの他人に囲まれた環境での鑑賞は、映画から受け取るものが異なり得るのではないか。映画のラストシーンで海辺のカフェのロングショットにじんわりと心を揺さぶられつつ、隣の若者が頬を拭う気配を感じていると、同じ感動を受け取っているわけではないと思いながらも、名前も顔も知らない、二度と近くに座ることもない他人との間にも、何かしらの限られた繋がりや連帯があり得るような気持ちになったりもするのである。