会津西街道(下野街道)

以前から長い距離を歩いてみたいと思っていたところ、東北諸藩が参勤交代に利用し、戊辰戦争では官軍が進軍して会津藩と激しく戦い、明治に入ってからはイザベラ・バードも旅したという会津西街道(下野街道)の旧道が一部残っていることを知り、会津田島から会津若松まで、旧道が残っているところは旧道を通りつつ、走れるところはキロ7₋8分程度のジョギングを織り交ぜながら歩いてみた。旧道は整備が行き届いているとは言い難く(紅葉シーズンの週末だったけれど、歩いている人はひとりも見かけなかった)、特に大内宿から会津盆地に抜ける区間はあまり人に薦められる道ではないのだけれど、豊かであっただろう昔を偲びつつ寂れた街道を歩きながら、富と交通、あるいは富と政治について感じさせられる良い旅だった。今回は鶴ヶ城にも行けなかったので、次回は東山温泉にでも泊ってゆっくりと会津での一日を過ごしてみたい。

土曜日の早朝に自宅を出て会津田島に向かい、駅近くの国権酒造を10時にスタートした。
楢原宿から大内宿まで約12キロの区間の3分の1程度はこうした旧道が残っている。この区間はところどころに標識があり、道に迷うことはなさそうに思える。
会津田島を出てから約22キロ、13時30分頃に大内宿に着いた。日没前に会津盆地に辿り着く必要があるので、短い滞在だった。
大内ダムから1.5キロ程度で旧道に入ってすぐの急登。道が分かりにくく、ガーミンの記録を見ると、自分は旧道を外れて通信用アンテナが設置された六石山の山頂を経由してから、一里塚と峠の茶屋の間まで下りて旧道に戻ったようだ。六石山の山頂を通る道は地図になく、登り返して分岐を確認したりで時間を使ってしまった。氷玉峠から先は新道を通ったのだが、旧道や氷玉川と出会うあたりは道なき道の状態で、最後は沢を歩くことになった。
16時50分の日没直後に福永宿に辿り着いてからはほぼ歩いてしまい、街道の起点であるゴール地点の大町四つ角に辿り着いたのは19時過ぎだった。ガーミンの記録では歩行距離は51.6キロ、獲得標高は1078メートル。この後、会津若松駅近くの富士の湯で汗を流してから、終電で自宅に帰った。