リア王

東京芸術劇場プレイハウスで「リア王」(演出:ショーン・ホームズ)を観た。幕が上がり、椅子、コピー機、プロジェクタといった現代のオフィス機器が疎らに置かれただけのシンプルな白い舞台で、現代の普通の衣装を纏った役者が400年前のシェイクスピアの台詞を放つのだが、そこに違和感が感じられないことに新鮮な驚きを覚えた。芝居が進み、舞台は奥の方にまで広がり、そこには根を露わにた1本の木が宙に浮いているのだが、美術や音響は極めてシンプルなままで、役者の存在感、声の大きさとトーン、注意深くデザインされた動きが、シェイクスピアの戯曲を活き活きと立ち昇らせる。何と言うか、現代の視覚的な記号を散りばめつつも、「リア王」の骨格や細部を鮮明に描き出すことで、400年前から上演されてきた芝居に共通する本質が現れる、言葉も文化もあらゆることが異なるように思える1600年頃の英国人が自分たちと同じように共感し、楽しんでいた芝居小屋の高揚感がすぐ隣にあるような、この芝居の長い歴史と共に観劇しているような、そんな感覚を覚えた。そう思うと、あの宙に浮いている木は能舞台の松のようだという妻の感想も、あながち的外れではないような気もしてくる。妻は浅野和之のグロスターに一番魅力を感じたそうで、自分もやはり大ベテランの役者たちが演じるキャラクターに魅力を感じたのだけれど、玉置玲央のエドモンドにも魅力を感じた。役者にとっては逃げ場も誤魔化しも効かないプレッシャーがかかる演出だったように思えるのだけれど、素晴らしい芝居だったと思う。「リア王」は数年前に4種類の翻訳を読み比べたことがあり、テキストには多少馴染があったのだが、この芝居を通じて改めて戯曲の力を感じさせられたし、最後のエドガーの台詞がこの戯曲への賛辞にも感じられた。