東京シティ・フィル第359回定期演奏会(ショスタコーヴィチ交響曲第7番レニングラード)

東京オペラシティで高関健指揮/東京シティ・フィルのショスタコーヴィチ交響曲第7番「レニングラード」を聴いた。昨年6月にクラウス・マケラ指揮/都響の演奏を聴いて以来の「レニングラード」だったのだが、二つの演奏の手触りはかなり違ったものに感じられた。昨年6月の演奏を聴いた後のこのブログの記事(こちら)を見ると「確かに音楽は美しかったし…音楽は音楽として楽しむべきなのだろうが、ロシアによるウクライナ侵攻が進む最中にこの曲を演奏することにはそれなりの意味があるはずなのだが、と考えてしまったり、この曲の中に組織や理念や構造ではなくパーソナルな視線を、個人に根差した私的な抵抗の視線を自分が見出せなかったからかもしれない…優れた演奏ではなくとも、今日とは違う「レニングラード」もあり得たのではないかと感じていた」とある。昨年6月の演奏が均整の取れた美しい音楽だったとすると、今回の演奏から感じたものは、ソロも大編成のオケも素晴らしかったのだが、やはり、複数の異なるベクトルの力が混在しながらシャープに像を結んでいくような「いびつさ」だったように思う。その「いびつさ」が、フィナーレで人間の主題を奏でつつ最後の四音にVictoryではなくSOSを感じさせるような引き裂かれた歌の切実な響きを生み出していたような気がする。演奏後の拍手は心のこもった分厚い音がして、オケの退場後も多くの聴衆が高関健の姿を待ち続けスタンディングオベーション送っていた様子が印象的だった。