イェルサレムのアイヒマン

ハンナ・アーレント著、大久保和郎訳「イェルサレムのアイヒマン」(みすず書房)を読んだ。アイヒマンの裁判について知ったのはおそらく高校生の頃で、その後村上春樹の「海辺のカフカ」を読んだ時にも印象的なモチーフとして記憶に刻まれたのだが、この本は未読だった。國分功一郎の「中動態の世界」を読んだ流れでメルヴィルの「ビリー・バッド」を読み、映画「ハンナ・アーレント」を観て、あるいはリヒターの「ビルケナウ」を観て、この本を手に取ったのだが、なかなか身体が文体に馴染まなかったせいか、読み進むスピードが上がるまでに少し時間がかかった。ちらりと英文を読んでみると、明晰な頭脳がハイスピードで語るような文体に感じられて、そのニュアンスを活かしつつ忠実な翻訳をするのは難しいのかもしれない。この本は、副題にあるように「悪の陳腐さ(banality of evil)」という文脈で語られることが多いように思うが、ホロコーストに関する知識が少ない自分にとっては、ナチスのユダヤ人政策に対する各国・共同体のそれぞれに異なる対応にも考えさせられたし(デンマーク、イタリア、ブルガリア、あるいはルーマニアはどうだったのか)、裁判の正当性や(アイヒマンの拉致・裁判・処刑とビン・ラーディンの殺害はどう違うのか、ルワンダのジェノサイドはどう裁かれたのか、裁判管轄の及ぶ地理的な範囲外(例えばネット空間)の行為を裁けるのか)、さらに文脈を拡げると、昨年末のNHK「ザ・ベストテレビ」で紹介されていた出生前診断は政策的な生命の選択なのか、政府や法律に支えられた罪を考えるならば地球温暖化は将来世代に対する薄められた罪なのか、悪と善は対概念なのか、読み進めながら様々な問いを思い浮かべることになった。「想像力の完全な欠如」、「完全な無思想性」がもたらす「悪の陳腐さ」は重要な教訓だと思う(221-222頁)。ただ、この本やアイヒマンの裁判をこの極まり文句に押し込めることは、「彼(アイヒマン)の述べることは常に同じであり、しかも常に同じ言葉で表現した。…この話す能力の不足が考える能力-つまり誰か他の人の立場に立って考える能力-の不足と密接に結びついている」(38頁)といった思考停止と結びつきかねない。アイヒマンの裁判は、ラベルを貼って押し入れに放り込みたい気分にさせられるが、様々な角度から光を当てて考えるべき事件なのだろうと思う。