クラウス・マケラ

サントリーホールでクラウス・マケラ指揮/東京都交響楽団のショスタコーヴィチ交響曲第7番「レニングラード」を聴いた。この曲を特集したNHKの番組を観た妻がこの曲を聴きたくて出かけたコンサートだったのだが、妻はこの曲以上にクラウス・マケラと都響のハーモニーに心を奪われたようだった。確かに音楽は美しかったし、完璧な経歴とルックスのクラウス・マケラは正にクラシック界の貴公子で、(プログラムから想像するよりも)客席には女性や若い人が多く、ファン層の拡大に貢献してくれているように感じた。自分は、というと、いまひとつこの曲に没入することができなかった。音楽は音楽として楽しむべきなのだろうが、ロシアによるウクライナ侵攻が進む最中にこの曲を演奏することにはそれなりの意味があるはずなのだが、と考えてしまったり、この曲の中に組織や理念や構造ではなくパーソナルな視線を、個人に根差した私的な抵抗の視線を自分が見出せなかったからかもしれない。最後の繰り返す四音を演奏する古川展生の気持ちの入った姿を見つめながら、優れた演奏ではなくとも、今日とは違う「レニングラード」もあり得たのではないかと感じていた。できれば今回は7月1日のマーラーのプログラムを聴きたかったと思うのだが、チケットは完売、本日10時発売の当日券も1分で売り切れたらしい、と果敢にトライした妻から連絡があった。

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